2014年12月29日月曜日

お墓まいり(2)

 二条駅から嵯峨野駅にいき、そこからトロッコ嵐山駅に向かう。

 駅員さんに、トロッコ電車では一駅だし、風光明媚な保津峡を見て欲しいと説得されて、往復して、帰りにトロッコ嵐山駅に降りることにする。

 トロッコ電車は楽しくて、がたんごとん、ときにがちゃこんと、今にも壊れるのではないかという荒武者ぶり。新幹線のご紳士ぶりとは対極にある。紅葉の名残が5パーセントくらいあり、それでも十分に楽しめました。終点まで行って、そのまま折り返して、トロッコ嵐山駅におりました。

 さすが京都です。こんな町外れでも、田舎びたところが無く、京都の気配を失っていません。歩いて15分くらい、二尊院がありました。ネットで検索してみた映像と同じなのだが、雰囲気が独特。墓地があるせいかもしれません。西の外れで、太陽が山陰に在ったからかも知れません。

 寺のパンフレットには「二条家、鷹司家、三条家、四条家、香道の創始者でもある三条西家や、角倉家など豪家の菩提寺」とある。都内にある墓地とは違って、厳かな雰囲気がある。

 さっそく、後藤艮山の墓を探し、ついで香川修庵の墓を探す。修庵は幸せだったでしょう。師匠のお墓の近くに眠って。かつて、池袋の洞雲寺に参ったとき、小曽戸先生は、隅っこでもいいから、森立之のお墓の近くに眠りたいといってました。同じような気持ちが、修庵にあったのだと思います。

 帰りは、嵯峨嵐山駅まで歩く。途中に、清涼寺あり。中に絹製の蔵府が収まっている釈迦如来立像(国宝)があるので有名。今から20年ほど前に、『史記』扁倉伝の研究をしているときに、幻雲の注釈の中に蔵府図があって、それを調べていた時に知ったことで、図らず寄り道する機会を得た。

 ところで、京都観光は、とくに広い寺院の境内は歩くざるを得ないから、足腰がしっかりしているうちに行かねばならない。たくさん歩いて、仏教が大歓迎されていた時代に思いをはせる。

2014年12月24日水曜日

第52回丹塾

 1月4日(日)の第52回丹塾は、小生が担当して「江戸期の鍼灸」の話をします。篠原孝市先生や、長野仁さんや、大浦慈観さんが、すでに詳細な研究をしていますので、これらを整理してお話する予定です。みなさんも、ご参加ください。(詳しくは丹塾ブログをみてください。)

 鍼灸の世界では、知っているつもりがたくさんあります。江戸期の鍼灸が日本鍼灸のルーツみたいなことをいいますが、研究はまだ不十分で、わかっていないことのほうが多いかも知れません。そのわかっていないことを、わかってもらうことがまず出発点だと思います。

 仏教のお葬式も、よく調べてみると、お釈迦様とは無関係の儀式になっているようです。戒名とか位牌とかお墓とか、仏教の本質とは無関係なのですが、私たちが一番気にしているところなのです。一番気にしているところが、まったく本質とは無関係なのが、歯がゆいではありませんか。

 鍼灸も、私たちは、どうでもいいようなことを、つっついているような気がします。重箱のすみをちくちくと。枝葉末節ではなく、もっと本質的な、核心をついた論争が必要なのですが、知っているつもりなので、まったく先にすすみません。根に着いた研究が進んでいません。そういうところに気づいてもらいたいと思います。

2014年12月22日月曜日

お墓参り

12月15日(月)はお墓参り。
 後藤艮山のお墓のある上品蓮台寺。香川修庵、伊藤仁齋のお墓のある二尊院に行ってきました。

 上品蓮台寺(じょうぼれんだいじ)は、千本北大路交差点の南方200メートルくらい。墓地はお寺の向かいにあり、後藤艮山のお墓を探す。全体の3割くらいは古いお墓で、お参りする人もいない様子。帰る頃に、般若心経を唱えている方がおひとり。

 後藤艮山のお墓は、やや傾き、風化し、寂しいかぎり。それでも、松尾芭蕉が、昔の歌枕で読まれた名勝旧跡は跡かた無いが、「壺の碑」は1000年経って、目の前に残っている。それを見ることができたのは、「行脚の一徳、存命の悦び、き旅の労をわすれて、泪も落つるばかりなり」(『奥の細道』壺の碑)と言っているのを読めば、艮山のお墓に参じることが出来ただけで、良かったのか。

 近そうな大徳寺まで歩く。京都は寒かったらしいが、歩いてばかりいたので、寒さ知らず。大徳寺は22の塔頭が属する大寺院。国宝「喜左衛門井戸」を所蔵する孤篷庵がある。正門に全体の地図があって、西のはずれに孤篷庵があったので、すぐ近くだと思っていたが、だいぶ歩きました。上野公園の南から、東京国立博物館までの距離はあったのではないか。なにしろ京都のお寺は大きい。どのお寺も立派。その昔、京都に来た大名は、その高度な文化にキモをつぶし、かくして自藩にも似たようなお寺を造ったのだろう。

 大徳寺の門前で、大徳寺納豆を買う。名のみ知る納豆で、お店に入るとご主人が出てくる。ご主人みずから腰を低くし対応してくれる当たりに、懐のおおきさ、中庸を感じる。

 商品は、大徳寺納豆のみ。大中小の3種類。大きく構えているお店と対照的。納豆は中国から将来されたもので、大徳寺納豆はその古態を保っているのだろう。味噌と、しょう油をまぜたような味で、真っ黒だから、何年も寝かせて作ると考えられる。枯淡なる味か。

  だいぶ歩いて孤篷庵に到着したが、拝観謝絶とのこと。「喜左衛門井戸」が展示してあって、ガラス越しに見るのを想定していたので、まことに残念でした。お寺の奥さん?が郵便物を取りにきたけど、「話しかけないでね」オーラで、尻込み。

 収穫は、艮山のお墓と、大徳寺納豆(ご主人も含めて)。


2014年12月17日水曜日

草喰(そうじき)なかひがし



 草喰(そうじき)は、お店の料理の方針で、野菜料理を出すお店。なかひがしは、店長の名字(中東)。

 銀閣寺交番の真向かい。小さなお店です。カウンタ12~3人というところでしょうか。二階にも座敷があるらしのですが。カウンター内には、朱のかまど(おくどさん)さんが設置してあってご飯を炊き、連なって炭床があり、魚を焼いてました。

 野菜料理とご飯がメインで、京都だから上品なところかと思いきや、腹一杯に食わせるという荒技をくらいました。

 一つ一つの野菜、お魚は、そうとうなこだわりぶりで、食器も、100年前にできたお椀を使ったり、昭和に作られたグラスを使ったり、ご主人のこだわりが半端じゃありません。でも、珍しい食材、高級な食器を使うお店は、他にもあるだろうと思います。美味しいとか、貴重だとか、こんなところで感動している場合じゃありません。

 僕が感動したのは、自然の材料を自分の足で探していること、捨てるところなく全てを料理につかうこと、最低限の調理で最上級の料理に仕立て上げているところです。にんじんの葉っぱをデザートに使い、ヒゲ根を他の料理に使い、ちいさい内に摘んだミカン(農家が捨てるの)をもらって来て、ドレッシングにしたり。にわとりは平飼いで、昨年の5月から飼っていたものだといい、鯉は地下水で3ヶ月泳がせて泥くささをぬくという。コーヒーは水出しで、20日間ねかせたものだといってました。そのうえ、野や山をかけめぐって料理の材料を探しているようです。

 メインディッシュはご飯で、炊きあがって蒸す前にひとくち出され、むしあがって椀にもって供され、さらにおこげまで出てくる。最後に、たまごが入った料理の残り汁に、もったいないからと、ご飯を投入してみたり、これでもかと食べさせるのである。残るおだしを最後まで飲んでもらおうと小さな器を用意したり、その徹底ぶりにはおそれいります。 「野菜を捨てること無く使いきる」というのは聞いたことはあるが、お料理として出されたのははじめてで、もったいないの精神、というより野菜を差別しないという精神が、というよりすべてを差別しないという仏教精神がすみずみまで配慮されていて、感動的でもありました。

 野菜を食べさせるお店という触れ込みからは想像できない、広さと奥深さのあるお店でした。このお店で、ご主人が仏教を説いたら、即刻即座にその真髄がわかるのではないでしょうか。ご主人は、『味の手帖』に連載をもっているほどの文人。お店では気さくな方ですが、相当に奥深い人のようです。

 次の日は、お墓参りしてきました。(つづく)
 
 

2014年12月16日火曜日

 京都仏眼鍼灸理療専門学校の小林校長のお招きで、12月14日、講演をしてきました。


 岐阜が雪模様というので、早めに出発し、少しばかり雪景色を視たくらいで、2分遅れで到着。三十三間堂の西側に学校があるので、京都駅から歩いて、鴨川を渡ってまもなくに学校があります。曲がり角に、町の和菓子屋さんがあったので、昼ご飯がわりに2ヶ購入。


 11時半に着いて、時間が余ったので、周辺を徘徊することにして、三十三間堂一周してきました。三十三間堂は2回拝観していますが、入り口は北側なので、南大門ははじめてみました。京都はどのお寺にいっても立派なのにはおどろかされます。それだけ、仏教が大歓迎された時代だったのだと思います。


 京都はどの道をあるいても、発見が多くて、町歩きには最高です。あちこちに小さなほこらがあり、古いお店があったり、知らないお寺があったり、歴史の看板があったり、歴史好きにはたまらないでしょう。


 講演は1時から5時。医道の日本社さんが、『温灸読本』を割り引き販売してくれて、講演終了後にサイン会することにしたので、20人くらいに、30分くらいサイン会しました。サインしている間、みなさんが話しかけてくれて、30秒くらいの間に、小さな会話をします。講演中は静かに聞いているけど、ちょこっと話しかけてくれるのは、うれしいものです。


 むかしならサイン会といえば、即座に断っていたでしょう。恥ずかしいから。今でも恥ずかしいのですが、その垣根が低くなっているので、せっかくのご厚意ですからとサイン会になったわけです。


 よるは、小林校長のご招待で、「草喰 なかひがし」に行ってきました。(つづく)

2014年12月3日水曜日

潮風

 11月23日は、母の三回忌で松島に帰りました。瑞巌寺の杉木立は、なんとも言えない香りに包まれていました。今までもその香りがあったのでしょうけど、この歳になってその香りを感じることができ、やっと大人の仲間入りしたのかと感無量でした。齢を重ねると、諸事に敏感・過敏になると聞いたことがありますが、マイナス面もあるらしいけど、新たに感動があるという意味ではおおいなるプラスではないでしょうか。

 翌日は、母の実家のあった湾内の離島、野々島に行ってきました。ここでは、潮風が感動的でした。懐かしい潮風ですが、皮膚の栄養になって活性化したような感じがしました。べたべたでからみつくような風ですが、それが懐かしく、うれしく思いました。

 歳とると田舎が恋しくなるとか、なかなか田舎から離れられないのは、こういうことを言うのではないでしょうか。三陸津波で故郷を離れ、原発で避難させられている方々は、ことばで言い表せない、表したとしても理解してもらえないもどかしさがあると思います。

 「鍼灸oosaka」という雑誌に、「補腎について」を寄稿しました。とくに、養生的な補腎を、『内経』を材料に考えてみました。冬、寒さ、腎は五行で関連があります。これを、ほどよい冬の寒さは腎を鍛え、冬なのに寒さから逃げると腎を弱めると考えました。ぼくらが子供のころは、たいした暖房もないのに、風邪を引くことはなく、インフルエンザの流行も無かったように思います。それは、適度に寒かったことによって補腎したのである。貝原益軒も、『和俗童子訓』で、子供の健康には「三分の飢と寒をお(帯)ぶべし」と言っています。

 このように、外界の気候は、適度であれば五蔵を養うし、過剰であれば五蔵を損なう。風も、暑さも、寒さも、身体の栄養になるということを、『内経』では提言していたのであります。

2014年11月17日月曜日

 昨日(11月16日)の勉強会で、「所」を学ぶ。その際、「ばかり」と読んで、「ほど」と解釈することを確認した。

 『霊枢』背兪篇に、膀胱経1行線は「相去る三寸所」とあるのが好例で、家本先生は、たしかに「三寸ほどのところにある」と訳している。

 三寸は、遵守すべき寸法である。遵守するならば、三寸を計る物差しが存在していなければならない。九鍼の規格にも、一寸六分などという数字が見えているところから、物差しは確かに存在したでしょう。

 三寸所は、物差しが存在したのに、三寸ほどというのだから、「個体差によって、反応の位置が異なるので、三寸を目安として、適宜調整せよ」という意味になる。

 のちに「三寸」として、「個体差によって、反応の位置が異なるので、三寸を目安として、適宜調整せよ」という但し書きを削除したために、反応を重んじるという取穴法はうけ継がれず、数字のみの経穴学が独り歩きしてしまったということになる。

 いずれにしても、「取穴の学」を、確立させるべきなのかも知れません。それは、経穴学と両輪を為すでしょう。

2014年11月15日土曜日

『温灸読本』増刷

 『温灸読本』が増刷されると連絡を受けました。とりあえずの責を果たして、安心しました。

 医道の日本から声をかけていただいた時期と、仲間と入力作業をしていた『千金方』に「灸例篇」が含まれているのを知った時期が重なって、成果となりました。その前だったら、要請を受けないし、受けても書けなっただろうから、まさに機が熟したというものでしょうか。

 香川の伝統鍼灸学会学術大会で、仙台の浦山さんから、「誰を対象に書いたの?」と問われました。「見た目は初心者向きだけど、中身は経験者向きだべ」って。日本内経医学会の望月さんからは、仲間と2回読んだ。誤字が多かったとおしかりを受けました。

 かくして、本を書くのは、恥を晒すものです。なので、丸山先生も、島田先生も、これを避けていました。初めはその禁を犯すのをためらいましたが、恥を晒すのも人生と思い直して、依頼を受けることにしました。

 まずは、増刷の報告まで。
 
 

2014年11月10日月曜日

安と利

 論語読みに使っているのは、武蔵野書院の論語。買ったのは平成10年版。そうすると、論語読みも16年目に入ったことになる。島田先生ご存命の時からであるから、16年経過ということになる。何度よんでも、見落としがだいぶある。
 偶然、24ページの里仁篇を読んだら、その頭注に伊藤仁齋先生の説が引かれていた。なるほど、うまいことを言うなと感心しました。

「仁者の仁におけるや、なお身の衣に安んじ、足の履クツに安んずるがごとし。これを安という。知者の仁におけるや、なお病者の薬を利し、疲者の車を利するがごとし。常に此とあい安んずるあたわず。これを利という。」
 
 都合の良いときに利用するのを「利」といって、それは智恵者の仁というものである。「利」というのは、自分に有利だということで、自分に有利なように仁愛をほどこす、それも悪いことではないが・・・・

 仁者の仁とは、日常、いつでも、どこでも、ぴったり寄り添うように存在するもので、一挙手一投足、食事の間も、緊急の時も、石につまずいた時にでも、忘れてはならないものである(里仁篇の第5条に説かれている)。それを成し遂げることは大変なことなのだが、それ以前に心地よいものであるという意味で「安」という。
 これを成し遂げることができたのは、唯一、顏回だけである。雍也篇第7条に、顏回はいつでも仁を忘れないが、他のひとは、一日か、よくて一月で忘れてしまう、とある。

 要するに、仁愛(おもいやり)を実行することは難しい事だが、仁愛を習慣化することによって成し遂げ易くなる、と伊藤仁齋は言う。難しいので厳しい修行が必要だと言ったのが朱子。それに対して、仁齋は、毎日すこしづつ実行することから始まると言う。

 仁愛を鍼灸に置き換えても、仁齋が考えたことは、なかなかに意味深い。

 

 

2014年10月20日月曜日

臨床50年

 昨日(10月19日)は、藤本蓮風先生の臨床50年を祝う会に参加してきました。

 臨床50年を数える人は、選ばれし人。故人では、岡部素道先生、小野文恵先生、現役としては首藤傳明先生、伊藤瑞凰先生がご活躍中。野球で言えば、名球会入りみたいな感じ。

 天寿100歳として、鍼灸家ならば、臨床70年は目標とすべきかも知れません。がしかし、鍼灸家が折寿している現在、臨床50年は、輝く金字塔といえる。今後は、70年を目指して欲しいところである。

 ところで、藤本先生に『弁釈 鍼道秘訣集』という著書がある。本人は、27歳で書いたという。出版されたのは、もう少し後だが、それにしてもなんと早熟なことか。派手な印象はあるけれど、とても地道な人であることは間違いない。地道な下積みを重ね、着実に成長し、開花をみたのであるから、本人は鍼狂人と自称するけれど、実にまっとうな先生である。藤本先生のみどころは、実に足元なのである。
 
 
 
 
  
 後進には、その開花をものまねせずに、下積みのところをよく見て、地道に進まれんことを、切にねがうところである。

2014年10月6日月曜日

迷い無き前進

 島田先生が亡くなったのは2000年8月。おそらく、その2年ほど前から、島田先生とテニスのラリーをしたくなって、テニス教室に通い始めました。

 以来、15年、欠かさずに通っています。その間、コーチが何人か変わりました。コーチそれぞれに教え方があって、特徴があります。

 今のコーチは、一番、合っているような気がする。何が合うかというと、前に歩くように打て、というんです。横で打たないで、前で打てというんです。遅めのボールならなんとか出来るのですが、速いボールだと、反応が遅れて、横で打つようになります。それでも前で打てというわけです。いつも頭の中は、前、前。

 テニスの技術としては特段のことは無いのでしょうが、実は『論語』とかぶっているので、納得がいっています。『論語』の核心は「仁」ではあるが、その他に「積極性」もあると思います。

 子、顔淵を謂う。惜しいかな。吾、其の進むを見たり。未だ其の止むを見ざりし。

 先生は顔淵について語った。死んでしまったのはとても惜しい。彼が前進しているのはよく見たが、彼が立ち止まったのは見たことがない。ためらいなく、よこしま無く、まっすぐ前進をつづける顔淵が、まぶしくて仕方ない、楽しそうに前進するのが羨ましくてならない。そんなセリフではないでしょうか。

 「進む」には迷いは邪魔である。

 迷った冉求(ぜんきゅう)という弟子は、「今、なんじはかぎれり」と叱られました。今、おまえは、迷っただろう、と。「かぎれり」は、原文では「画」で、「今、お前は自分から見切りをつけている」と訳される(金谷治)が、そうでは無いような気がする。

 「画」は、分画の意味で、ふたつに分けることであり、ふたつを天秤にかけることである。先生の道を進むことは自分には出来ないのではないかと冉求。その冉求を、出来る出来ないで迷っている、そのことがお前の前進をためらわせているのだ、「今、なんじはかぎれり」と。

 解釈はいずれにしても、「迷い無き前進」は、『論語』から教わり、テニスからも教わって、そして身につきそうです。そういう意味で、今のコーチは、良いのです。




 

鍼法の真髄

 9月28日の丹塾古典部は、『内経』の刺法、補写法についての条文を、関連づけながら読みました。これらの条文は、個人的には何度も読み、その都度、わかったつもりでした。

 今回読み直してみたら、やっぱりわかったつもりで、わかっていませんでした。一つの漢字、一つの語句、一つの文章の読み方が浅すぎました。『論語』を読むように、何度も繰り返し読まないと、真髄までは到達しないと痛感しました。さらに、ちょっと読んだだけでわかったつもりになるのは、『内経』に失礼じゃないかと思うようになりました。
 

 それでも、今回は、なんとなく鍼法の核心部分に近づいたような気がします。山頂が見えてきたというか。とはいっても、それが山頂なのかは、心もとない。

 『論語』は、教養のためにと読み始めたのだけれど、繰り返し読んでいる内に、古典の読み方の基本を学んだような気がする。わからないけど、繰り返し読んでいると、いつのまにか真髄に到達できるような感じがする。『内経』は分量が多いので繰り返し読むというわけにはいかないけど、大事なところは繰り返し読みたい。

 本の読み方にいろいろあるけれど、『内経』は精読するしかない。一回読んだだけで理解できる、そんなチープな古典ではなさそうです(他の古典もそうなのでしょうが)。 
 

 『論語』は医書じゃないから、読む必要はないのかも知れないが、古典の読み方を学ぶためには格好の教材。孔子の生の言葉、行動が記録されていて、脚色が無いのが何よりいい。お釈迦さまの説法を金口直説(こんくじきせつ)というらしいが、まさに『論語』はそれである。『内経』もそれなのである。今までは、肩肘張って、読み解くというような気持ちで、読んでいましたが、そうではなくて・・・・

「説法者と、漢字を挟んで、会話する」、9月28日は、そんな気持ちになれました。
 

2014年9月23日火曜日

相性の良い土地

 僕の生まれは宮城県で、宮城県といっても広くて、生まれたのは桃生郡豊里町というところで、現在は登米市に合併。一昨年、弟に連れていってもらって、50年ぶりに、出生の地をみてきた。そこには、4才くらいまで居たのだとおもう。あたまの奥に、その木、その道が、かすかに残っていたし、道の突き当たりには学校があるという記憶も確かだった。

 父が鍼灸師になるために仙台の学校に行っていた3年の間は、母の実家の塩竃市浦戸野々島(離島)に3年ほど住んでいました。周りは海。幼稚園などないから、ただ遊び回っていたのだと思う。1年生の1学期は浦戸小学校にまなび、2学期から松島町に借家を得て住むことになった。
 

 その借家とは、松島瑞巌寺を造営するための大工さんの住まいだったそうで、築400年のかやぶき屋根の家。今で言う古民家ですね。古民家に住んだ経験からいえば、古民家には住みたくないですね。湿気で床は腐り、虫は上の方から落ちてくる、何にしても不便です。それから10年位して、近くに土地を得て、簡易なる住宅をたてて、ようやく独立というところでした。

 標題の相性の良い土地というのは、浦戸野々島で、船を下りたとたんに身体が軽くなり、気も晴れ、それだけで幸せを味わうことができます。(以前のブログにも書きましたが、桃源郷のようなところです。)

 松島も、いい土地柄なのでしょう。伊達正宗が選んだだけあります。今は、埼玉県川口市に住んでいますが、松島か野々島から帰ってくると、駅から自宅まで歩いて3分のあいだに、身体も心も、どよ~んと重くなります。いかんとも、重い。

 しかし、家に帰り、時間が経つと、重いという感覚も忘れてしまっています。感度が鈍るというか。重いということは、身体にはなんらかの影響があるのではないかと、ちと気になっています。

2014年9月8日月曜日

丹澤章八先生随筆・講演集『鍼灸の風景』

 東洋鍼灸専門学校の元の校長の丹澤章八先生が、かつて発表した随筆や、講演文をまとめた『鍼灸の風景』が刊行された。といっても軽装版である。

 昭和52年にかいた「中国針法に想う」は、中国留学の時の記録。古い時代の中国、中国鍼法がかいま見えて、とても面白い。
 平成6年に書いた「山下先生とわたし」は、師匠の山下九二夫先生への思いの重い追悼文。理想的な追悼文で、軽い追悼文しか書けない僕には、よいテキストである。
 平成20年の「鍼灸教育雑感」は、第36回日本伝統鍼灸学会学術大会の会頭講演の記録。丹澤会頭、宮川実行委員長の、東洋鍼灸専門学校あげての学会でした。昨日のことのように思い出す。
 以上3篇を含めて、都合15篇を納める。

 鍼灸の世界で、文章が書ける先生が少ない中、丹澤先生は、本人は遅筆といいながら、吟味を重ねた文章が書ける先生である。

 1冊1500円(送料別)で頒布いたします。希望者は、miyakawakouya@gmail.com にメールください。もしくは、鶯谷書院に直接お渡しすることも可能です(ただし、毎週土曜日の午後2時~5時。第3日曜日、第4日曜日の午後2時~5時。メールで確認してください)。

 文章は、いろいろなところに発信できるツールなのだが、今の鍼灸界は文章が書ける人が少なくなって、発信力にとぼしく、しぼんでいるように見える。とくに、伝統鍼灸では、それが著しい。伝統伝統鍼灸の普及発展には、書き手の育成が緊急の課題でもある。

 


2014年9月4日木曜日

喜左衛門井戸






喜左衛門井戸4


 写真が、「喜左衛門井戸」である。喜左衛門という人が所持していた井戸茶碗である。井戸茶碗というのは、朝鮮で作られていた、ごく普通のどんぶりである。これを高麗茶碗という。


 大量生産品で、美術品ではない。「喜左衛門井戸」は、失敗作らしく本来は捨てられたはずのものが、どういう運命か日本の茶人に拾われ、いまや国宝である。つまり、ゼロ円の品物が、もし完成品だとしても100円くらいの品物が、日本に渡り、島根の松平不昧公が買ったときは550両(1両10万円として5500万円)。そして、今や国宝に。


 ご覧のように、綺麗で整った美術品ではなく、どちらかというと見にくいゆがんだどんぶりである。なので、産地の朝鮮では価値は認めてもらっていない。なぜか、日本の茶人が、渋いだとか、わびだとか言われて、美術品に昇華したのである。


 評価の対象は「無作為」。美術品を作ろう、高く買ってもらおう、世間にみとめてもらおう、そういう作為が全くみられない。柳宗悦は、「朝鮮の品々は、嘗ていやらしいもの俗なもの、つまり醜いものが、殆どないのである。」「ここで醜いという言葉を<罪深い>という言葉に置きかえると、尚はっきりしてくる」と言う。


 醜いというのは、見た目の醜さではなく、裏に見え隠れする「作為」である。高く買ってもらおう、世間に認めてもらおう、そういう作為である。それが、井戸茶碗だけでなく、なんにでも、そうだという。


 井戸茶碗に、透明な精神性があり、それを茶人が発見し、好んだのである。


 江戸時代、高麗茶碗をつくる対州窯が設置され、明治末年まで継承されていた。昭和になって、小林東五という人が再興し、一定の評価を得ていたが、70歳になって、廃窯した。理由は「調子に乗ると見苦しい」。


 『老子』第九章に「功成りて、身退くは、天の道なり」を具体化したのである。ほんらい「無作為」のものを作るのに、有名になってしまって、こんどは有名を維持するために制作するのが「見苦しい」というのである。


 天の道に外れているから「見苦しい」、不自然だから「見苦しい」。老子を再び考えよう。
 

2014年9月2日火曜日

直観

 柳宗悦の『茶と美』(講談社学術文庫)を久しぶりに読んだら、

 「直観は、その文字が示すとおり、見る眼と見られる物との間に仲介場を置かず、じかに見ること、直ちにみることである」

 という記載に出会った。この本も、何度か読んでいるのに、この文章を拾えなかったのは、味わう能力が未だ及ばざるが故なり。少しは成長したみたい。

 何か食べたいときに、美味しい店を検索したり、他の人の意見を聞くことがあるが、それでは直観にならない。自分の舌で決めるべきである。直観しないかぎり、いつまでも直観に達しない。いつでも人の意見を聞いているかぎり、独立できないし、自由になれない。直に、自分の目で、観る。直に、自分の手の平で、診る。鍼灸は、直観の医療なのである。

 直観といえば、東京国立博物館の「有楽井戸」を思い出す。ケース越しに覗いた茶碗に惹かれてしまって、しばらく茶碗に凝ったことがある。この茶碗を持ってみたい。触ってみたい。そういう衝動に駆られてしまった。結局は、同じ系統の茶碗を入手して、満足してしまったのだが、記憶に残っている直観といえば、「有楽井戸」である。

 『茶と美』に「喜左衛門井戸を見る」という一文があり、著者の柳が、国宝の「喜左衛門井戸」を直に見ることができて、そのときのことを文章にしたものである。その時の気持ちがとてもよくわかる(けど、雲泥の違い、月とすっぽんの違いがある)。

 眼の前にあるのである。持って良いのである。触って良いのである。このような機会は二度と無いのである。あこがれの「喜左衛門井戸」なのである。高揚感に溢れる一文である。

 『茶と美』のカバーは、その「喜左衛門井戸」なのだが、ほれぼれします。しぶい。




2014年8月18日月曜日

中庸



 「中庸」とは、「かたよらず、過不足のなりあり方」というので、ほどほど、中間、折衷と思っていたけど、文質彬彬(ぶんしつひんぴん)が、文と質を両方持ち合わせることであって、文と質の折衷でないとすれば、文質彬彬と中庸は別の概念なのか、そんなことを考えていたら、金谷治先生の『論語と私』に「中と和」という文章があって、はっきりとした答えがかいてありました。

 両端を兼ねあわせるのが中庸だと。

 両端の中間でも、折衷でもないようです。清濁あわせのむ、に近いのかも知れません。『論語』もよみ、『老子』もよみ、というところでしょうか。相対する思想でしょうが、あわせ読む。そうかんがえると、中庸というのは、実にフトコロが深い、大きい。清廉潔白は良いことだけど、エスカレートして、悪い、ずるい、汚いをすべて排除してしまっては、フトコロが狭くなってしまうのではないでしょうか。

 今年の6月29日は、中谷内茂子さんの墓参でした。在学中に病気になり、卒業後まもなく他界された女性で、有志で墓参しようとなりました。お墓は、長野県の坂城町にあり、車で行ってきました。

 墓参者は7名。同級生は船橋さんだけ。その他は下級生だった竹井さん、赤塚さん、石水さん。そしてまったく面識のない後輩である佐々木さん、菅野さんが参加しました。知り合い度がさまざまでしたが、いろいろ混じって「中庸?」の集まりになりました。

2014年7月28日月曜日

からだとこころ

 よく、からだとこころは一体だ、とか言われ、心身一如ということばが利用されている。中医基礎理論では、五神、五志などといって、五蔵と魂魄や感情が関わっていることを言うが、そこまでであって、心身一如ということは書いてないようである。どうも、日本人が考え出したような感じである。


 こころの問題は、日本内経医学会の霊枢講座で、天年篇に及んだときが、本格的に取り上げなければならない題材だと気がついた。天年篇は、健康は、蔵府の調和、経脈の調和、志意の調和から成る、と明言している篇で、蔵府と経脈については既知のことだが、志意の調和とはどのようなことか、そもそも志意とは何か。そこから、突っ込み始めました。


 7月26日(土)・27日(日)の両日は、恒例になっている、第9回北里大学東洋医学研究所主催の「教員のための古典講座」が開催された。小生も一講座担当することになり、こころの問題を整理して、発表した。


 『内経』には、こころを扱う立場が三つあること、それぞれ異なる立場であること、中医学で取り上げているのはその一つの立場だけであって、残りの二つの立場は、見落としているか、削除していること、などをとりあげた。『内経』は、清濁併せのみ、すべての意見をふところをに抱えているのである。もし、こころがからだと密接に関係しているならば、からだの見方も三つあるということになる。『内経』はいろいろな立場の論集だといわれるが、ひとつの切り口として、こころの問題があるのかもしれない。


 
 こころの問題は、医学のみならず、養生とも関わり、宗教、思想、哲学とも関わり、なかなか扱いにくいのだが、『内経』の原初的な問題提起を、まずは素直に拾って、整理しておかねばならないと思った次第。


①主宰神を認める立場→『霊枢』本神篇
②主宰神を認めない立場→『素問』上古天真論篇(老荘思想)


③分別智を重視する立場→『霊枢』天年篇
②分別智を否定する立場→『素問』上古天真論篇(老荘思想)


 おおよそ、以上の三つの立場を拾うことができる。すべて、立場が異なっている。ただし、三つの立場ともに、『内経』では簡単な紹介でおわり、医学的に深めたとは言いがたい。おそらく、鍼・灸、湯液という治療が、こころの不調に適していないから、問題を提起しただけで、さらにすすんで検討されなかったのかも知れない。


 こころの問題が深められたのは、老荘思想や仏教が活発に討論された、六朝時代ころと考えられる。









2014年7月24日木曜日

『鷹野鍼灸院の事件簿』

 『鷹野鍼灸院の事件簿』は、東洋鍼灸専門学校のごたごたが題材になっていると漏れ聞いたので、早速、買って読みました。

 宝島社の文庫で、600円。著者は乾緑郎さんと言う人で、東洋鍼灸専門学校卒の鍼灸師でもあります。前半は、鷹野鍼灸院をめぐる話題で、後半が主人公の母校のごたごたが題材になっています。

 こういう小説は、世間受けするのか、と思ったけど、今年5月の第1刷で、7月には増刷しているようなので、結構売れているようです。乾ファンと、鍼灸師が読者なのか。ペーパー鍼灸師が、すっかり忘れてしまって、今更教科書も気が重い人には、思い出すように読むのにはとても良いかと思います。読みやすい文章ですし、専門用語も適宜、ばらまかれてあります。著者は、鍼灸師なのだけど、それだけでなく、よく勉強なさっていて、説明も的確で、読みやすい文章でした。

 学校のごたごた物を題材にし、それを切れ味よく事件に仕立て上げているところでは、構成力といい、文章力といい、優れた人だなあ、という感想でした。一気に読ませる、そういう力量は、あるのではないか。(評論家みたいですけど)

 後半の主人公は、教務から事務に移動した立花先生で、モデルの先生が彷彿として、にやにやしながら読みました。鍼灸に関しての、著者の意見が挟まっていたりして、勉強にもなりました。

2014年7月14日月曜日

重岡恵さん逝去

 数年前に脳卒中でたおれ、その後、闘病中だった、同門の重岡恵さんが、本日(7月14日)に逝去した。60代半ばでしょうか。先輩も仲間も、相次ぎ、70才を超えられずにこの世を去っているのを思うと、焦るような、あきらめるような、複雑な気分です。

 
 倒れた直後と、転院先の山梨の病院、そして最後になった流山市の光陽台病院、都合3度のお見舞いでした。齒が抜けるように、ひとり、ひとりと、仲間が居なくなるのは、たましいが抜けるようです。居なくなることがわかっていても、現実に直面すると、す~っと、抜けていくようです。
 

 この学統の「いいつたえ」として、「誰かをよぶ」というのがあります。昭和50年に丸山先生が亡くなったあと、翌年には藤木先生をよび、平成12年に島田先生がなくなったら、翌年には島原の森川君を呼びました。昨年9月に亡くなった金古先生は、重岡さんを呼んだのでしょうか。

 こんな「いいつたえ」が効力を発揮しているのかどうかわかりませんが、ひとり、ひとりと、齒が抜けたように居なくなるのは、残った者としてはなかなかにしんどいです。しんどくない人もいるのでしょうけど、ぼくの場合は、しんどい。わかっていることなのに、こころに空洞ができ、その空洞が埋まる前に、次々と空洞ができるのは、もっとしんどい。

 10年前ならこんな思いはしなかったから、だんだんこころもろくなってますなあ。



2014年7月7日月曜日

温灸読本のPR

 医道の日本社のHPに、温灸読本の著者インタビューが掲載されました。ご参考ください。
 昔だったら恥ずかしくて、こんなことには至らないのですが、『論語』を読み始めて、だんだん、ふところが深くなって、清濁併せのむことが少しずつ出来るようになりました。恥ずかしいけど、出しゃばっているけど、僭越ですが、訴えるのは今しかないと思って、思いを発露しています。

 
 
 
 
 
 
 

文質彬彬(ぶんしつひんぴん)

 ワールドカップのブラジル・チリ戦のオープニングの国家斉唱。どちらのチームの、選手も、監督も、コーチも、さらには満場のサポーターまでが、叫ぶように国歌を歌っていました。まるで怒鳴りあっているようでした。

 君が代では、叫ぶような歌い方はできないし、日本人もおとなしいし、見たことがない異次元の国歌斉唱でした。この叫びをみて、『論語』の文質彬彬を思い出しました。

 「質、文に勝てばすなわち野。文、質に勝てばすなわち史。文質彬彬、然るのち君子なり」(『論語』雍也篇)

 文とは、美しい模様のあるさま、温和で上品なさま。
 史とは、虚飾があるさま、うわべがかざられているさま。
 質とは、飾り気のないさま。素朴さ。
 野とは、野蛮で、教養が無く洗練されていないさま。

 文が過ぎれば史になり、質がすぎれば野になる。文と質は、相反するものだが、ほどほどに混じり合った人物が、理想的人物(君子)だという。彬彬は半々とおなじ。

 おそらく、孔子の教団に所属すると、仁愛だとか、教養だとかいわれるので、どうしても文にかたよるのだろうと思う。弟子たちが、だんだん温和で上品になり、おとなしくなっている様子が浮かび上がる。其の結果、文が良くて、野が悪いという差別意識が生まれてきているところに、「君たち、荒々しさ、下品さを、忘れてはいけないぞ、捨ててはいけないぞ」、そう言ったのでしょう。

 二つのうち、どちらかを否定して抹消させるのではなく、二つの相反する見方をバランスよく活かすべきだ、ということでしょう。善なるも良し。悪なるも良し。苦も良し。楽も良し。分け隔てが無い。

 孔子は、品行方正で、まじめ一辺倒な人物のようだけど、そうではないようです。お酒は、乱れない程度に、飲む。歌をうたうのは、葬儀の間は、止める。金持ちになりたいけど、自分の努力不足なら貧乏でも良い。親孝行のためには長生きしたいけれど、「朝に道をきかば、夕べに死すとも可なり」と言ったり、老いがやってきているのに気がつかなかったり。堅苦しくなく、価値観に融通性がある。物事の判断に隔てがない。こんなところが、魅力的です。

 それはそうと、今の私たちの生活は、便利で、安心で、平和な世の中に見える。とても、文に片寄っている。その延長線上に、サッカーの日本のチームが在ったのではないかと思う。チームワーク、協調性、パスワークとかが、日本のチームの特徴だというけど、別な見方をすれば、野にとぼしい。型破り、意外性、強引、自分勝手、そういう面を持ち合わせていない。チームとしての幅、奥行きがなく、単調だったのではないでしょうか。

 いずれにしても、日本人に粗野性が薄れている。失いかけている。それは素朴・純朴から発するとしたら、もっと生活も、頭の中もシンプルにして、原初の野生を復活させたい。鍼灸にも、その原初性があるに違いない。

 
 
 
 どばーっと血をとって欲しい、釘のようなものを刺して欲しい、ぎゅ~っとつねってほしい。時には、そういうリクエストをする方がいる。こういった理屈抜きの鍼灸も、忘れがたいものです。

 理屈の鍼灸と理屈抜きの鍼灸、半々。然る後、上工なり。でしょうか。



2014年6月16日月曜日

仁術の仁とは

 無事、講演会を終えることができ、ほっとしています。

 講演は向きではないし、好きでもないのですが、頼まれれば「やる」を基本にしています。

 それなのに、講演のメモを書き入れた「温灸読本」を忘れてしまって、万事休す。孔子先生ではないけど、「何の陋か、これ有らん」(どんな困難も、何の問題があろうか)というように、マイナスに考えないで、頭の中のまばらな記憶を寄せ集め、組み立てて、なんとか講演を終えました。

 仁術の仁とは、元々は「おもいやり・慈しみ」という意味があり、これを孔子先生が、自身の哲学の根本に据えて、忠恕、孝悌、礼儀などと、君子が修徳すべき事柄に広げたものが「孔子の仁」というもの。さらに朱子は、「孔子の仁」に仏教の哲学・道家の思想も組み入れて、「朱子の仁」を形成した。

 「医は仁術」、誰が始めに言ったのかわかりませんが、「孔子の仁」を指して言ったのでしょう。しかし、原初の「おもいやり・慈しみ」でも、十分「医は仁術」として通用すると思います。

 つまり、「医は、おもいやり・慈しみの、技術である」ということです。さて、その「おもいやり・慈しみ」は、どこから生まれ出てくるのでしょうか? 生まれつきの性格なのか、道徳的教育でやしなうものなのか。

 中村元先生の『仏教の真髄を語る』に、その解答がありました。「つまり自他の対立を超えるから、慈悲が具現されるのであります」と。「自他の対立を超える」とは、頭の中で分別をしないこと、だと思います。
 
 

 
 お祖母ちゃんが、孫の研ちゃんに、「肩もんで」と頼んで、研ちゃんが「いいよ」ともんでくれたけど、べつの日に「肩もんで」と頼んだら、ゲームに熱中していて、「いやだ」と断ったとします。研ちゃんは元々優しい子なので、慈悲のこころを持っていたとしても、研ちゃんがゲームをしていて中断したくないという分別が生まれたので、「いやだ」と断ったことになります。そういう意味で、分別しないところに、慈悲が生まれるというのでしょう。

 頭の中で分別をしないとは、無心、あるいは無為と言え、『素問』の中の「恬憺虚無」と同じだとおもいます。治療に際して、あれこれ考えないこと。ああしよう、こうしよう、こうすれば喜ばれる、いやがられないかな、治るか、治らないか、治らなかったらどうしよう。こういう風に、あれこれ分別しないこと、考えないこと。

 「医は仁術」、その根本がすでに『素問』に明記されていたのです。何十年も『素問』を見ていながら、なにもわかっていない愚かさには、われながらあきれています。それでも、遅ればせながら、恬憺虚無の真髄がわかって、すっきりしています。

 
 無分別であるがゆえに、慈悲のこころが生まれ、その慈悲のこころを持って手当し、その手当の延長線上に鍼灸治療が存在する、という風に考えてみました。

 医は仁術、とても深奥なることばのようです。


 
 
 
 









 

 

2014年6月5日木曜日

儒教の原型

ひろさちや・山下龍二『ひろやちやが聞く 論語』(すずき出版)の、ひろさちやの「まえがき」が奮っている。

 
 わたしたちは、この儒教の原型を知る必要がある。その必要性を、わたしは声を大にして叫んでおきたい。
 なぜなら、わたしたちが儒教の原型を知るとき、日本の「儒教」がいかにインチキであるかがよくわかるからだ。そして、日本の「儒教」のインチキさが暴露されると、わたしたち日本の庶民が、いかに無責任な政治家どもに誑(たぶら)かされてきたかが明白に見えてくる。その結果、世紀末に生きるわたしたち日本の庶民が本当の幸福を得るには、「どのように思考すればよいか」「どのように実践すればよいか」がわかってくる。・・・・

日本仏教については、本文で、

(日本には)お釈迦様の仏教もなければ、お釈迦様後の仏教もありません。・・・中国の仏教もじつは、日本に入ってきていない。・・・日本の仏教には、五、六人の天才がいて、その中でも空海と道元と親鸞の三人はまた飛び抜けて大天才なわけです。

と、日本仏教は、日本化された仏教であって、仏教の本当の教えは、日本の仏教では学べないという。仏教だと思っていたのが、仏教じゃない。ありがたいお経は、ありがたくない。

 もしかしたら、鍼灸も同じではないか。日本の鍼灸は、自国内で生きて行くだけなら、いまのままで良いのだが、鍼灸の本当の教えを知るためには、鍼灸の原型を明らかにしなければならないだろう。馬王堆・張家山の出土文書は、その原型をしる手がかりとして、最良無二の宝物であると確信する次第。


 「鍼灸の原型」、たのしみになってきました。 「原型」がわかれば、「どのように思考すればよいか」「どのように実践すればよいか」が明白になり、鍼灸師が幸福になる、はずである。


2014年6月2日月曜日

医は仁術

 東京科学博物館で行われている「医は仁術」展も、あと2週間で閉幕する。さて、「仁術」とは、どういう意味なのか。

 「仁」を、人間形成の最重要ポイントとして取り上げたのは、孔子である。孔子の言行録である『論語』に、「仁」の用例がたくさんでてくる。したがって、「仁術」をしりたければ、『論語』をよむのが一番である。。

 驚いたことに、岩波文庫版の『論語』は、昭和63年の初版から、累計134万部が売れたそうである。初版が34刷、再版が24刷を重ねているから、単純に計算しても1刷で2万部。岩波文庫では、第4位の売り上げ数だそう。日本人は、『論語』が好きなんです。

 ところで、「医は仁術」というところの、現代の「医」の人は『論語』を読んでいるのだろうか。江戸時代ならば、東洋医学を指して「医は仁術」と言ったのだろうから、鍼灸家は「医は仁術」を重く受け止めなければならない。

 『論語』をよまなくても、仁術についてのレクチャーくらいは、どこかで為されなければならない。仁術を遂行するかどうかは、個人が選択すれば良いことだが、教養として、最低限の知識を共有しておきたいところだ。

 たとえば、伊藤仁齋の『論語』研究は、弟子の後藤艮山の灸術にも影響が及び、艮山の弟子の香川修庵も、仁術なるものを追求し、ついには灸術を深め、香川流灸法を確立させたように、仁術と灸法はとても近しい関係にある。

 こうした例をふまえても、 仁術をはっきりさせなければ、私たちの鍼灸は根無し草になるのではないかと、やや不安であります。

 
 6月14日(土)18時~21時、灸法臨床研究会の主催で、講演の機会を得たので、「仁術」のはなしを少しばかりする予定。講演の詳細は、「三景」のHPでご確認ください。

2014年5月19日月曜日

白鵬迷い無し

 5月19日、白鵬と遠藤のとりくみ。
 白鵬は、電車道で、1秒もかからず、勝負をきめる。勢いのまま、遠藤とともに、土俵下に落ちる。横綱なれども、初心どおりの相撲。遠藤に手加減しないし、自分にも手加減しないところに、相撲を知っているというか、相撲道を覚っているというか、すがすがしさを感じる一番でした。

 『素問』上古天真論篇に「其の民、朴と曰う」とあるが、白鵬を指すのではないでしょうか。

 相撲みながらでも、『素問』を解釈できるようになったのは、ありがたい。『素問』を読むだけが、『素問』読みでなく、いろいろな経験や知識、その視点からも『素問』を読むことができるならば、あえて机の前に坐っていなくとも良いのである。

  『素問』無くして、『素問』読む。
 無素問の素問。(無用の用のぱくりですが。)
 

2014年5月6日火曜日

志を鍼に在らしむ

 「志を鍼に在らしむ」とは、『霊枢』終始篇のことばで、原文では「令志在鍼」である。鍼治療の極意を述べている。志とは、こころ。神、精神、気持ち、意識などと、ほぼ同じい。

 これを「精神を鍼先に集中する」と読むか、「精神を鍼先に移す」と読むのでは、だいぶ違う。

 「精神を鍼先に集中する」のは、精神集中(一神)した本人の延長線上に鍼先があり、いかにも理想的だが、本人には一神が存在していて、力が抜けていない。鍼の存在を意識しながら、鍼を使っている。もちろん、この域に達するのも簡単ではない。

 「精神を鍼先に移す」というのは、精神を集中させ(一神)、それ(一神)を鍼先に移すこと。一神を鍼先に移せば、本人は無神になる。無神は、無我にも通じ、無為にも通じる。無我になって、鍼を運用するとは、鍼を持っているが、鍼を持っていない、鍼をわすれていること。こうなると、究極の鍼師だな。

 無神の状態は、スポーツ選手によく見られる。稽古場では横綱くらいに強いが、本場所となると勝とうという意識がはたらいて平幕どまり。そういう力士がいるらしい。白鵬は、純粋無垢、無意識に近いようである。ただ、稀勢の里の時だけ、稀勢の里に精神が集中してしまって、時に負ける。

 『霊枢』終始篇に、このようなことが書かれているらしい。(自前の解釈だけど)

 

 

2014年4月20日日曜日

初期の医学

 仏教の本を読んでいます。
 インドの仏典があり、それを中国訳(漢訳)したもので中国仏教が発展し、その中国がら我が国にもたらされ、根付いたのが日本の仏教です。インドの仏典は、お釈迦さんが在世の時に説かれた話とか、ずっと後になってお釈迦さんを知らない弟子たちが聞いた内容と、さまざまな時代と形式で残っているようです。その中でもお釈迦さんが在世の時に説かれた内容を、初期仏教というようです。

 中国医学も同じような経過をたどり、
 初期の医学、それを整備した医学、経験を加味しながらさらに理論化した医学というように考えることができます。今読んでいる、『黄帝内経』は、初期の医学から整備した医学への過渡の産物のようです。五行説で整理しているのは、整備した医学であり、理論的、あるいは意識的操作がなされた産物であるので、そのあたりを考慮しておかねばならないでしょう。

 初期の医学の抽出は、『黄帝内経』より古い、馬王堆医書、張家山医書をよく研究すれば明らかになるはずです。その中で、「十一脈」は、十二経脈説の祖型ですから、あきらかに初期の医学です。それから、導引(運動、ストレッチ、呼吸、あん摩)も、初期の医学で、この中の筋肉部分が専門化されて、経筋概念になったものと思われます。両医書には、五蔵に関する記載が少ないところを見ると、初期の医学では五蔵はあまり重視されていなくて、『黄帝内経』で五蔵の記載が深まっているのは、臨床などをふまえて整備された結果といえそうです。

 お墓、戒名、お葬式をどうするとかいう問題は、日本の仏教の問題であって、初期の仏教とはまったく関係ないものです。お通夜で、お寿司をつまみ、お酒をのんでいるし、お葬式のかえりには、塩をわたされる。こういうことをああだ、こうだと論議するより、仏教の本質を知ることのほうがはるかに大切なのではないでしょうか。 

 同じように、日本の鍼灸も、現在の鍼灸の状況を整理したり、追っているだけでは、鍼灸医学の本質はわからないだろうと思うし、本質がわからないかぎり、これからも今まで通りだし、将来、何も変わらないと思います。いま、原典をさぐって、初期の医学を明らかにすることが、大事だときがつきました。馬王堆、張家山が発見される前までは、『黄帝内経』が原典だったのですが、それより古い両書が発見された以上は、馬王堆、張家山が原典であるのは明白となりました。

 というわけで、鶯谷書院の活動として、馬王堆、張家山などを重視していきたいと思います。

 
 宣伝ですが、6月14日(土)18時~21時、講演をすることに成りました。
 詳しくは、三景(http://oq83.jpのホームページをみてください。





2014年3月31日月曜日

丸山先生の墓参

 3月30日(日)、丸山昌朗先生の墓参。折しも、強い雨、激しい風で、荒々しい墓参でした。
 金古先生は、遺影でご参加。お墓の前で、カレーを相伴しながらの一時を思い出しました。
 
 

 鎌倉に行く電車の中、「島田君は貧乏しなければならない」という言葉を思い出して、味わっていました。『著作集』159ページにある言葉で、島田先生が開業するときのお祝いの言葉。「貧乏ほど尊いものはありませんよ」とつづく。

 樹木が、栄養が無ければないほど、水分が乏しいければ乏しいほど、深く、広く、強く、根をのばすように、中途半端な小銭は返って害となり、根が伸びない。根が伸びないということは、基本が育たないことを意味するか。鍼灸界を背負ってたつためには、鍼灸を、深く、広くたがやすための時間が必要であることを、言っているのではないか。

 『論語』に、金持ちが、得られるなら、卑しい仕事でもなんでもやるが、得られないのであれば、吾が好むことをやりたい、とある(述而篇)。孔子は、金持ちを否定しているわけではなくて、できるならば金持ちになりたい。ただ、確立としては、とても低い。そんな狭き門の前で汲々しているより、広々としたところで、自分の好きなことをすべきではないか。前途有望な学徒を、営利のために、その歩みを曇らせたくないという師匠の慈しみなのか。

 
 島田先生は、菅沼周桂の『鍼灸則』の序文「豪傑の一道を復古する」をよく引かれてましたが、鍼灸道を発展させるためには、広い視野をもち、深い学識をそなえなければならないでしょう。自分のことだけに構っている場合ではありません。少なくとも、深くて広い学識をえるには、相当の時間が必要でしょう。

 というようなことを電車の中で考えていましたが、それでも「貧乏ほど尊いものはない」は、汲み尽くせませんでした。

2014年3月17日月曜日

慈しみのこころ

 物理学出身の植木雅俊という先生が、仏教に興味をもち、サンスクリット語の原典を読み、仏教の本当の教えはどういうことなのかを書いた『仏教、本当の教え』(中公新書)を読んだら、とても面白かった。この本は、2年ほど前に買った本で、ちらっと読んで積んであったもの。その時は、おもしろくなかったが、偶然、出てきて、読み始めたら、なんと面白いことか。この2年ほどで、大人になったんだなあ、とうぬぼれています。
 良い本と悪い本というのはない。高いとか安いとかいうものも存在しない。確信を持った次第である。

 ところで、仏教の本当の教えとは。
  • 自己を制し、他人を利益し、慈しみに満ちていることが法である。
  • 何かに執着し、何かに囚われた自己にではなく「法に則って生きる自己」に目覚めさせようとしたのが仏教であった。その自己は、法に則っているが故に「真の自己」なのである。
  • 仏教がめざしたことは、「真の自己」の覚知による一切の迷妄、苦からの解放であったといえる。

 如何に仏教に対して無知であったか痛感しました。仏教の本当の教えを知って、とても安心しました。お墓のこととか、お葬式のこととか、お布施、戒名、ということは、本当の教えとは無関係の様子である。
 そして、「立っていても、歩いていても、坐っていても、臥していても、眠っていない限り、この慈しみの念をたもつべきである。」といっていました。究極は、慈しみのこころを持つことのようです。
 

 同じ内容が、『論語』にもあって、おどろきました。「君子は終食の間も仁に違わず、造次にも必ず是に於いてし、顛沛も必ず是に於いてす」、君子は、食事中も仁愛をわすれず、急ぎのときも仁愛をわすれず、転びそうになっても仁愛をわすれない、と。

 孔子が仁愛といい、釈迦が慈愛という。どのような温度差があるのか、いま知らざるも、慈しみの温かいこころが本当の教えであることを知って、力がみなぎってきました。







 
 
 

2014年3月10日月曜日

必ずや狂狷か。


 『論語』子路篇に「 子曰く、中行を得て、之に与(くみ)せずんば、必ずや狂(きょう)狷(けん)か。狂者は進取し、狷者は為さざる所有り」とある。

 君子になるには、中行(中道)の者でなければならないが、そうでなければ、狂者か、狷者がよい。なぜなら、狂者(きょうしゃ)は、自分で進んで道を求めようとしているし、狷者(けんしゃ)は、なにもしていないようだが、正しいと考えた道理を固く守る力を十分にもっているからである。
 どちらも、道に近いという。

 

 孔子は、弟子には中道者(バランスの良い人)を目指せというものの、実際は中道者になるのははとても難しい。そこで、弟子たちに、狂者たれ、狷者たれ、と言っているのではないだろうか。

 「よ~し、俺ひとりでもやる」といって、『校勘和訓素問』、『校勘和訓鍼経』を、完成させた丸山昌朗先生は、なるほど狂者か。こつこつと、『経絡治療誌』、『日本経絡学会誌』の編集を努められた島田隆司先生は、きっと狷者か。

 

 いま、何となく、古典鍼灸の世界は、静かである。華々しい活動は、あまり無い。では、先細りなのかと思うと、どうもそうではない。狂者と狷者らしき若者が、結構、うようよしているからである。そういう意味では、楽しみである。

 狂者のように出しゃばり過ぎでも、狷者のように控えめ過ぎでも、いいのだそうである。かえって、利発で、要領が良いのが、意外に、道から遠いのかも知れないと、孔子は思っているのだろう。

 

2014年2月17日月曜日

2年経っての方向性

 鶯谷書院の活動も2年を経過し、さまざまな成果が上がってきています。

 校正作業では、昨年に『千金方』、もうすぐ『千金翼方』が完成します。両書は、養生学の古典と称しうるものですし、鍼灸学の『内経』『難経』以来の古典でもあります。いままで、遠い存在でしたが、このたびの校正作業によって、だいぶ身近になりました。ここから、大学教科書としては「養生学」のデザインがみえてきました。

 つづいては、江戸時代の鍼灸文献の入力校正を視野にいれています。この作業が進むと、現代の鍼灸学は確実にステップアップするはずです。先人のすぐれた鍼灸術を開拓し、発掘するわけですから、じつに楽しみになってきます。この作業が一段落するころに、大学教科書として「江戸鍼灸学」ができあがっていることを目指します。

 あたらしい「内経学」を模索していると、「経脈学」が不備であることがわかりました。「経穴学」は、歴代文献があったり、整理しやすいこともあって、だいぶ進展していますが、「経脈学」はあまり研究されていません。そこで、大学教科書として「経脈学」を、模索することにしました。

 2年間の作業や勉強会をへて、「養生学」「江戸鍼灸学」「経脈学」を、当面の目標としたいと思います。興味ある方は、勉強会に参加するか、メールでも質問・意見をおよせください。
                                                   (2014/02/17)

 

2014年1月16日木曜日

自鍼

 自分で鍼治療することを、自鍼というようです。これは、江戸時代の矢野白成の『鍼治枢要』に書いてあります。治療全般でいえば、自療といいます。

 自療あんまという言葉もあります(白隠禅師は「ひとりあんま」と言っていました)が、治療家にしてもらうあんまは、他療あんまといいます。

 
 矢野先生は、患者さんに鍼を持たせて、自鍼させることがしばしばあったようです。お灸では、よくある光景ですが。おそらく、現在のように便利でなければ、自分で治療するのが、標準であるのかも知れません。

 患者さんが自鍼するには、治療方法はシンプルでわかりやすくなければなりません。ここが、ポイントです。補法、瀉法だとか手技をうるさく言わない、ツボの位置をうるさく言わない、理屈をこねない、矢野先生の医学は、そういうものだと推測できます。それでも、十分に効果を発揮できているわけですから、3年も学校に行っても、効果が出せないのは、おかしい、あやしい、のではないでしょうか。

 今は、学校で教えている内容が常識になっていますが、もう一回、基礎から洗い直す必要があるのではないでしょうか。第四日曜日、鶯谷書院で、矢野先生の本を読んでいますが、何かヒントがあるかも知れない。

 難しいことが高尚、複雑な技を持つことが上工、そういう泥沼から抜け出て、簡単で、わかりやすい、そういう鍼灸医学を打ち立てたいものです。