2014年10月6日月曜日

迷い無き前進

 島田先生が亡くなったのは2000年8月。おそらく、その2年ほど前から、島田先生とテニスのラリーをしたくなって、テニス教室に通い始めました。

 以来、15年、欠かさずに通っています。その間、コーチが何人か変わりました。コーチそれぞれに教え方があって、特徴があります。

 今のコーチは、一番、合っているような気がする。何が合うかというと、前に歩くように打て、というんです。横で打たないで、前で打てというんです。遅めのボールならなんとか出来るのですが、速いボールだと、反応が遅れて、横で打つようになります。それでも前で打てというわけです。いつも頭の中は、前、前。

 テニスの技術としては特段のことは無いのでしょうが、実は『論語』とかぶっているので、納得がいっています。『論語』の核心は「仁」ではあるが、その他に「積極性」もあると思います。

 子、顔淵を謂う。惜しいかな。吾、其の進むを見たり。未だ其の止むを見ざりし。

 先生は顔淵について語った。死んでしまったのはとても惜しい。彼が前進しているのはよく見たが、彼が立ち止まったのは見たことがない。ためらいなく、よこしま無く、まっすぐ前進をつづける顔淵が、まぶしくて仕方ない、楽しそうに前進するのが羨ましくてならない。そんなセリフではないでしょうか。

 「進む」には迷いは邪魔である。

 迷った冉求(ぜんきゅう)という弟子は、「今、なんじはかぎれり」と叱られました。今、おまえは、迷っただろう、と。「かぎれり」は、原文では「画」で、「今、お前は自分から見切りをつけている」と訳される(金谷治)が、そうでは無いような気がする。

 「画」は、分画の意味で、ふたつに分けることであり、ふたつを天秤にかけることである。先生の道を進むことは自分には出来ないのではないかと冉求。その冉求を、出来る出来ないで迷っている、そのことがお前の前進をためらわせているのだ、「今、なんじはかぎれり」と。

 解釈はいずれにしても、「迷い無き前進」は、『論語』から教わり、テニスからも教わって、そして身につきそうです。そういう意味で、今のコーチは、良いのです。




 

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