2014年7月7日月曜日

文質彬彬(ぶんしつひんぴん)

 ワールドカップのブラジル・チリ戦のオープニングの国家斉唱。どちらのチームの、選手も、監督も、コーチも、さらには満場のサポーターまでが、叫ぶように国歌を歌っていました。まるで怒鳴りあっているようでした。

 君が代では、叫ぶような歌い方はできないし、日本人もおとなしいし、見たことがない異次元の国歌斉唱でした。この叫びをみて、『論語』の文質彬彬を思い出しました。

 「質、文に勝てばすなわち野。文、質に勝てばすなわち史。文質彬彬、然るのち君子なり」(『論語』雍也篇)

 文とは、美しい模様のあるさま、温和で上品なさま。
 史とは、虚飾があるさま、うわべがかざられているさま。
 質とは、飾り気のないさま。素朴さ。
 野とは、野蛮で、教養が無く洗練されていないさま。

 文が過ぎれば史になり、質がすぎれば野になる。文と質は、相反するものだが、ほどほどに混じり合った人物が、理想的人物(君子)だという。彬彬は半々とおなじ。

 おそらく、孔子の教団に所属すると、仁愛だとか、教養だとかいわれるので、どうしても文にかたよるのだろうと思う。弟子たちが、だんだん温和で上品になり、おとなしくなっている様子が浮かび上がる。其の結果、文が良くて、野が悪いという差別意識が生まれてきているところに、「君たち、荒々しさ、下品さを、忘れてはいけないぞ、捨ててはいけないぞ」、そう言ったのでしょう。

 二つのうち、どちらかを否定して抹消させるのではなく、二つの相反する見方をバランスよく活かすべきだ、ということでしょう。善なるも良し。悪なるも良し。苦も良し。楽も良し。分け隔てが無い。

 孔子は、品行方正で、まじめ一辺倒な人物のようだけど、そうではないようです。お酒は、乱れない程度に、飲む。歌をうたうのは、葬儀の間は、止める。金持ちになりたいけど、自分の努力不足なら貧乏でも良い。親孝行のためには長生きしたいけれど、「朝に道をきかば、夕べに死すとも可なり」と言ったり、老いがやってきているのに気がつかなかったり。堅苦しくなく、価値観に融通性がある。物事の判断に隔てがない。こんなところが、魅力的です。

 それはそうと、今の私たちの生活は、便利で、安心で、平和な世の中に見える。とても、文に片寄っている。その延長線上に、サッカーの日本のチームが在ったのではないかと思う。チームワーク、協調性、パスワークとかが、日本のチームの特徴だというけど、別な見方をすれば、野にとぼしい。型破り、意外性、強引、自分勝手、そういう面を持ち合わせていない。チームとしての幅、奥行きがなく、単調だったのではないでしょうか。

 いずれにしても、日本人に粗野性が薄れている。失いかけている。それは素朴・純朴から発するとしたら、もっと生活も、頭の中もシンプルにして、原初の野生を復活させたい。鍼灸にも、その原初性があるに違いない。

 
 
 
 どばーっと血をとって欲しい、釘のようなものを刺して欲しい、ぎゅ~っとつねってほしい。時には、そういうリクエストをする方がいる。こういった理屈抜きの鍼灸も、忘れがたいものです。

 理屈の鍼灸と理屈抜きの鍼灸、半々。然る後、上工なり。でしょうか。



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