3月30日(日)、丸山昌朗先生の墓参。折しも、強い雨、激しい風で、荒々しい墓参でした。
金古先生は、遺影でご参加。お墓の前で、カレーを相伴しながらの一時を思い出しました。
鎌倉に行く電車の中、「島田君は貧乏しなければならない」という言葉を思い出して、味わっていました。『著作集』159ページにある言葉で、島田先生が開業するときのお祝いの言葉。「貧乏ほど尊いものはありませんよ」とつづく。
樹木が、栄養が無ければないほど、水分が乏しいければ乏しいほど、深く、広く、強く、根をのばすように、中途半端な小銭は返って害となり、根が伸びない。根が伸びないということは、基本が育たないことを意味するか。鍼灸界を背負ってたつためには、鍼灸を、深く、広くたがやすための時間が必要であることを、言っているのではないか。
『論語』に、金持ちが、得られるなら、卑しい仕事でもなんでもやるが、得られないのであれば、吾が好むことをやりたい、とある(述而篇)。孔子は、金持ちを否定しているわけではなくて、できるならば金持ちになりたい。ただ、確立としては、とても低い。そんな狭き門の前で汲々しているより、広々としたところで、自分の好きなことをすべきではないか。前途有望な学徒を、営利のために、その歩みを曇らせたくないという師匠の慈しみなのか。
島田先生は、菅沼周桂の『鍼灸則』の序文「豪傑の一道を復古する」をよく引かれてましたが、鍼灸道を発展させるためには、広い視野をもち、深い学識をそなえなければならないでしょう。自分のことだけに構っている場合ではありません。少なくとも、深くて広い学識をえるには、相当の時間が必要でしょう。
というようなことを電車の中で考えていましたが、それでも「貧乏ほど尊いものはない」は、汲み尽くせませんでした。
2014年3月31日月曜日
2014年3月17日月曜日
慈しみのこころ
物理学出身の植木雅俊という先生が、仏教に興味をもち、サンスクリット語の原典を読み、仏教の本当の教えはどういうことなのかを書いた『仏教、本当の教え』(中公新書)を読んだら、とても面白かった。この本は、2年ほど前に買った本で、ちらっと読んで積んであったもの。その時は、おもしろくなかったが、偶然、出てきて、読み始めたら、なんと面白いことか。この2年ほどで、大人になったんだなあ、とうぬぼれています。
良い本と悪い本というのはない。高いとか安いとかいうものも存在しない。確信を持った次第である。
ところで、仏教の本当の教えとは。
如何に仏教に対して無知であったか痛感しました。仏教の本当の教えを知って、とても安心しました。お墓のこととか、お葬式のこととか、お布施、戒名、ということは、本当の教えとは無関係の様子である。
そして、「立っていても、歩いていても、坐っていても、臥していても、眠っていない限り、この慈しみの念をたもつべきである。」といっていました。究極は、慈しみのこころを持つことのようです。
同じ内容が、『論語』にもあって、おどろきました。「君子は終食の間も仁に違わず、造次にも必ず是に於いてし、顛沛も必ず是に於いてす」、君子は、食事中も仁愛をわすれず、急ぎのときも仁愛をわすれず、転びそうになっても仁愛をわすれない、と。
孔子が仁愛といい、釈迦が慈愛という。どのような温度差があるのか、いま知らざるも、慈しみの温かいこころが本当の教えであることを知って、力がみなぎってきました。
良い本と悪い本というのはない。高いとか安いとかいうものも存在しない。確信を持った次第である。
ところで、仏教の本当の教えとは。
- 自己を制し、他人を利益し、慈しみに満ちていることが法である。
- 何かに執着し、何かに囚われた自己にではなく「法に則って生きる自己」に目覚めさせようとしたのが仏教であった。その自己は、法に則っているが故に「真の自己」なのである。
- 仏教がめざしたことは、「真の自己」の覚知による一切の迷妄、苦からの解放であったといえる。
如何に仏教に対して無知であったか痛感しました。仏教の本当の教えを知って、とても安心しました。お墓のこととか、お葬式のこととか、お布施、戒名、ということは、本当の教えとは無関係の様子である。
そして、「立っていても、歩いていても、坐っていても、臥していても、眠っていない限り、この慈しみの念をたもつべきである。」といっていました。究極は、慈しみのこころを持つことのようです。
同じ内容が、『論語』にもあって、おどろきました。「君子は終食の間も仁に違わず、造次にも必ず是に於いてし、顛沛も必ず是に於いてす」、君子は、食事中も仁愛をわすれず、急ぎのときも仁愛をわすれず、転びそうになっても仁愛をわすれない、と。
孔子が仁愛といい、釈迦が慈愛という。どのような温度差があるのか、いま知らざるも、慈しみの温かいこころが本当の教えであることを知って、力がみなぎってきました。
2014年3月10日月曜日
必ずや狂狷か。
『論語』子路篇に「
子曰く、中行を得て、之に与(くみ)せずんば、必ずや狂(きょう)狷(けん)か。狂者は進取し、狷者は為さざる所有り」とある。
君子になるには、中行(中道)の者でなければならないが、そうでなければ、狂者か、狷者がよい。なぜなら、狂者(きょうしゃ)は、自分で進んで道を求めようとしているし、狷者(けんしゃ)は、なにもしていないようだが、正しいと考えた道理を固く守る力を十分にもっているからである。
どちらも、道に近いという。
孔子は、弟子には中道者(バランスの良い人)を目指せというものの、実際は中道者になるのははとても難しい。そこで、弟子たちに、狂者たれ、狷者たれ、と言っているのではないだろうか。
「よ~し、俺ひとりでもやる」といって、『校勘和訓素問』、『校勘和訓鍼経』を、完成させた丸山昌朗先生は、なるほど狂者か。こつこつと、『経絡治療誌』、『日本経絡学会誌』の編集を努められた島田隆司先生は、きっと狷者か。
いま、何となく、古典鍼灸の世界は、静かである。華々しい活動は、あまり無い。では、先細りなのかと思うと、どうもそうではない。狂者と狷者らしき若者が、結構、うようよしているからである。そういう意味では、楽しみである。
狂者のように出しゃばり過ぎでも、狷者のように控えめ過ぎでも、いいのだそうである。かえって、利発で、要領が良いのが、意外に、道から遠いのかも知れないと、孔子は思っているのだろう。
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