2014年11月17日月曜日

 昨日(11月16日)の勉強会で、「所」を学ぶ。その際、「ばかり」と読んで、「ほど」と解釈することを確認した。

 『霊枢』背兪篇に、膀胱経1行線は「相去る三寸所」とあるのが好例で、家本先生は、たしかに「三寸ほどのところにある」と訳している。

 三寸は、遵守すべき寸法である。遵守するならば、三寸を計る物差しが存在していなければならない。九鍼の規格にも、一寸六分などという数字が見えているところから、物差しは確かに存在したでしょう。

 三寸所は、物差しが存在したのに、三寸ほどというのだから、「個体差によって、反応の位置が異なるので、三寸を目安として、適宜調整せよ」という意味になる。

 のちに「三寸」として、「個体差によって、反応の位置が異なるので、三寸を目安として、適宜調整せよ」という但し書きを削除したために、反応を重んじるという取穴法はうけ継がれず、数字のみの経穴学が独り歩きしてしまったということになる。

 いずれにしても、「取穴の学」を、確立させるべきなのかも知れません。それは、経穴学と両輪を為すでしょう。

2014年11月15日土曜日

『温灸読本』増刷

 『温灸読本』が増刷されると連絡を受けました。とりあえずの責を果たして、安心しました。

 医道の日本から声をかけていただいた時期と、仲間と入力作業をしていた『千金方』に「灸例篇」が含まれているのを知った時期が重なって、成果となりました。その前だったら、要請を受けないし、受けても書けなっただろうから、まさに機が熟したというものでしょうか。

 香川の伝統鍼灸学会学術大会で、仙台の浦山さんから、「誰を対象に書いたの?」と問われました。「見た目は初心者向きだけど、中身は経験者向きだべ」って。日本内経医学会の望月さんからは、仲間と2回読んだ。誤字が多かったとおしかりを受けました。

 かくして、本を書くのは、恥を晒すものです。なので、丸山先生も、島田先生も、これを避けていました。初めはその禁を犯すのをためらいましたが、恥を晒すのも人生と思い直して、依頼を受けることにしました。

 まずは、増刷の報告まで。
 
 

2014年11月10日月曜日

安と利

 論語読みに使っているのは、武蔵野書院の論語。買ったのは平成10年版。そうすると、論語読みも16年目に入ったことになる。島田先生ご存命の時からであるから、16年経過ということになる。何度よんでも、見落としがだいぶある。
 偶然、24ページの里仁篇を読んだら、その頭注に伊藤仁齋先生の説が引かれていた。なるほど、うまいことを言うなと感心しました。

「仁者の仁におけるや、なお身の衣に安んじ、足の履クツに安んずるがごとし。これを安という。知者の仁におけるや、なお病者の薬を利し、疲者の車を利するがごとし。常に此とあい安んずるあたわず。これを利という。」
 
 都合の良いときに利用するのを「利」といって、それは智恵者の仁というものである。「利」というのは、自分に有利だということで、自分に有利なように仁愛をほどこす、それも悪いことではないが・・・・

 仁者の仁とは、日常、いつでも、どこでも、ぴったり寄り添うように存在するもので、一挙手一投足、食事の間も、緊急の時も、石につまずいた時にでも、忘れてはならないものである(里仁篇の第5条に説かれている)。それを成し遂げることは大変なことなのだが、それ以前に心地よいものであるという意味で「安」という。
 これを成し遂げることができたのは、唯一、顏回だけである。雍也篇第7条に、顏回はいつでも仁を忘れないが、他のひとは、一日か、よくて一月で忘れてしまう、とある。

 要するに、仁愛(おもいやり)を実行することは難しい事だが、仁愛を習慣化することによって成し遂げ易くなる、と伊藤仁齋は言う。難しいので厳しい修行が必要だと言ったのが朱子。それに対して、仁齋は、毎日すこしづつ実行することから始まると言う。

 仁愛を鍼灸に置き換えても、仁齋が考えたことは、なかなかに意味深い。