2017年2月27日月曜日

『江南遊』

 鶯谷書院の書架にあったので、借覧しました。著者は書家の青山杉雨(1912~1993)。長江下流南岸地域の旅行記録である。文人の出身地をたどり、古蹟をさがし訪れている。何度も訪れているようである。

 とりあげているのは、杭州、紹興、寧波、蘇州、無錫などの都市。どちらかといえば、古都市の、古びた部分が好きらしく、よく探し出して紹介している。

 なんと、昨年春に訪れた南京が取り上げられている。梁墓(梁代の王侯慕)、孝陵(明代の太祖の墓)を紹介し、また中華門の重厚さに驚いている。予習しておけば良かったなあ。

 著者が行ったときは、孔子廟は焼失して、ただの広場になっていたらしいが、わたし達が行ったときは、りっぱな孔子廟が建っていた。その孔子廟の前の秦淮河を、南のほうにいけば、その中華門があるらしい。行ってみたかったなあ。

 白黒ですが、写真がふんだんに使ってあるので、なかなか楽しい読み物です。その写真の半分くらいは、クリーク(小運河)に小舟が浮かんでいる写真で、櫓がついている小舟は、母方の実家の小舟とまったく同じ構造。源流は江南なのでしょうか。

 いまごろ復習したことになりますが、予習復習は大切だと思いました。






 


2017年2月20日月曜日

古民家


 わらぶき屋根の家、冬はあたたかそうですが、ごらんの写真は真冬で雪がまっていますが、雨戸を開けないと家の中は真っ暗なので、フルオープンです。唯一、最前線で寒さを防いでいるのか障子です。

 その障子すら、たてつけが悪くてすき間があるのですから、かろうじて寒さを防いでいるだけです。こんな状況、よほど強い老人でなければ、乗り越えられなかったのではないでしょうか。

 ガラス戸が普及したために、開けなくても良くなり、サッシになって機密性がよくなり、ストーブも備わって、いよいよ快適な近代生活になりましたが、つい50年くらいまでは、田舎では、江戸時代と変わらない生活していたのです。

 便所も、お風呂も、今考えれば不便なもので、普通に生きていくことが大変だった時代です。

 もし、このお宅で、冬に鍼灸治療をしようとしたら、手足だけのツボで済むように工夫するしか無いし、鍼数、灸数も少なくしなければならないでしょう。そんな心づもりも、江戸時代の鍼灸文献を読むときに必要かも。

2017年2月14日火曜日

懐かしの渡し船

『一億人の戦後70年』(毎日新聞出版社)という本に載っていた写真。写真の解説には「渡し船に乗った生徒たち 1949年7月 宮城県・松島湾」とあります。

 渡し船は、今は今は塩竃市営汽船というのですが、昭和40年ころまでは、このような船で、今は立派なものになっています。小学生のとき、母方の実家(塩竃市浦戸野々島)に行くとき、これと同じものにのりました。写真残っていたんですねえ。

 船の中は畳張りで、冬は火鉢がありました。夏なので、窓を全開にしているようです。
舳先が桟橋に着くので、おりるときは後から、先生らしき人が立っているへりを通って舳先まで行くことになります。20センチくらいの幅しかないので、子どもながら怖かった記憶があります。屋根の手摺りにつかまりながら移動しました。

 屋根に乗っている子供らは、平気のへいざで立っていますから、怖くないんですね。海の子でしょうね。先生も、堂々としたもんです。僕には、母方の海の血がまじっているといっても、怖がっていたのですから、この子達からみれば、海の血はそうとう薄いかもしれません。


2017年2月11日土曜日

懐かしの我が家2

 もう一枚。
 前の家(奥田さん)の解体の写真です。残っているのが、我が家です。このころ、我が家の周辺に、我が家も含めて5軒のわらぶきの家が残っていました。その5軒は、父親に変わって、解体作業を手伝いました。中学生のころだと思います。

 父親は、まだ50台なのに、なぜ中学生のぼくが手伝いに行かされたのか。近所づきあいが苦手だった。身体が華奢だった。手が荒れることはしたく無かった。全部かもしれません。

 すすが舞って、鼻の穴、目のまわりまで、真っ黒になりました。屋根の藁を取りのぞくと、土壁を壊し、最後は柱や梁にロープをつなげ、みなで引っ張って倒しました。大きな家でも、人力で解体できるのは、智慧なのでしょうか。これが、コンクリだったら、人力では壊せないでしょう。

 解体作業の写真もありました。藁をトラックに積んで、近くの畑で焼いてました。藁をばらす係、それを束ねてトラックに乗せる係、藁を焼く係。思い出しました。わらを束ねる係をやりました。

 老子は、小国寡民、小さなコミュニティを理想としましたが、今思えば、水主町は、老子の理想郷だったのかも知れません。地域のことは、地域の共同作業で、自力で処理する。日本全国どこにでもあったことなのでしょうが。

 集団の時代から、個の時代にかわって、失ったものもあり、得たものもあり。






2017年2月9日木曜日

懐かしの我が家

 弟経由で、懐かしの我が家の写真が送られてきた。

 この道は、江戸時代から続く街道で、おそらく松尾芭蕉も通っている。このあと、道を間違えて、石巻に行ってしまう。

 左側の二件目、電信柱の後のわらぶきの家が、我が家。松島瑞巌寺を建築したときの大工が住んでいたといわれ、瑞巌寺は1609年に完成しているから、1600年初めのころの建物である。

 父はここで生まれたわけではなく、ツテをたどって、ここを借家にして、ここで鍼灸を営んでいました。半宅半出張だったのではないでしょうか。

 この町は歴史が深く、「水主町(おかこまち)」といわれ、松島湾に浮かべてある伊達藩の御座船の船頭が住む町である。年中、船頭の仕事があるわけではないので、半農半漁、ときどき船頭という身分なのでしょう。

 お向かいの商店が、桜井百貨店。雑貨屋さんで、駄菓子を買いにいったところ。季節になれば、鮒釣りの竿も買いました。長靴にベルト固定するスケートも売ってました。

 お祭りのときの写真で、みえないけど先頭に御神輿がいるはずです。まるで江戸時代みたいですね。

 電柱の両脇に人がいるのだけど、弟によれば、兄と僕だそうです。こんなところで、50年以上も前の自分とご対面するとは。(前回のブログのタイトルが「ルーツ」なだけに、とても驚いています。)

2017年2月6日月曜日

わがルーツ

 沢庵の「医説」に、山の生まれの人が、海の仕事をするのは、祖先にそういう人がいて、そのたましいに誘われて、山を下りて海に行くのだそうです。

 初めて行った所でも、前に来たような感じがしたり、懐かしかったりするのは、祖先の地なのかも知れません。そんなこともあって、地方に行くのは、とても面白い。なので、無くし物を探するように、父祖の地なのか、きょろきょろするのです。

 弟によれば、父方は会津若松が出。母方の祖母は、長野出身。海近くで生まれ育っているけど、山の血もそれなりに濃い。

 日本のどこかで、ここだ! という所にめぐりあえるかもしれないので、どこに行くのでも、わくわくしています。


2017年2月4日土曜日

鳥取城

 藩の大きさに比例して、鳥取城はなかなか大きい。城は戦国時代から造られていて、古い時代の城は山の上にあり、新しい城は麓にある。石垣も表情はさまざまである。

 昭和18年の地震で、その石垣は崩れおち、石の山と化したらしい。それを、昭和35年から積み直して、旧貌を回復しつつある。現在もなお積み直し作業が続いている。

 修復した(している)のが、石工の上月騰(こうづきのぼる)さん(ネットで検索してみてください)。父親に従い、60年近くにわたって、崩れおちた石を、元の位置にもどしたというから、気の遠くなる作業だったでしょう。損得言ったり、小賢しいことをしていたら、続かない。素朴に、坦々と石を積み上げている姿勢に頭がさがるばかり。

 今回(1月31日)は雨降りで、ご挨拶程度の城址散策だったので、近い将来、フルで散策したいなと思っています。

 

2017年2月3日金曜日

鳥取藩

 鳥取藩は、32万石の大藩である。加賀100万石、島津77万石、伊達62万石からみれば、準大藩というところでしょうか。

 鳥取県の人口が60万弱。鳥取市が20万。米子市が15万。倉吉市が5万。三つの市で、3分の2を占め、残りは県内に分散している。

 準大藩だった割には、人口は少ない。お話を聞くと、教育に熱心な県なので、優秀な人材が大都市に流出するのが原因らしい。郷土にはたらき口があれば、郷土が活性化していれば、優秀な人材が流出することは無かったのに。

 鍼灸界は、優秀な人材が流入している、希有な業界である。しかし、中身が薄いので、留まらないで、流出している可能性も高い。

 北京の中医大学に留学してから、日本の専門学校に入った人が語るには、なんじゃこれ、だそうです。東洋医学部門の中身の無さ、その落差に唖然としたそうです。

 教科書、参考書さえ充実していれば、学校という箱がなくても、学校に通わなくても、強い気持ちさえあれば、独学で十分だと思います。

 教えるから教育から、学び取る教育にシフトすべきかも知れません。