2014年11月10日月曜日

安と利

 論語読みに使っているのは、武蔵野書院の論語。買ったのは平成10年版。そうすると、論語読みも16年目に入ったことになる。島田先生ご存命の時からであるから、16年経過ということになる。何度よんでも、見落としがだいぶある。
 偶然、24ページの里仁篇を読んだら、その頭注に伊藤仁齋先生の説が引かれていた。なるほど、うまいことを言うなと感心しました。

「仁者の仁におけるや、なお身の衣に安んじ、足の履クツに安んずるがごとし。これを安という。知者の仁におけるや、なお病者の薬を利し、疲者の車を利するがごとし。常に此とあい安んずるあたわず。これを利という。」
 
 都合の良いときに利用するのを「利」といって、それは智恵者の仁というものである。「利」というのは、自分に有利だということで、自分に有利なように仁愛をほどこす、それも悪いことではないが・・・・

 仁者の仁とは、日常、いつでも、どこでも、ぴったり寄り添うように存在するもので、一挙手一投足、食事の間も、緊急の時も、石につまずいた時にでも、忘れてはならないものである(里仁篇の第5条に説かれている)。それを成し遂げることは大変なことなのだが、それ以前に心地よいものであるという意味で「安」という。
 これを成し遂げることができたのは、唯一、顏回だけである。雍也篇第7条に、顏回はいつでも仁を忘れないが、他のひとは、一日か、よくて一月で忘れてしまう、とある。

 要するに、仁愛(おもいやり)を実行することは難しい事だが、仁愛を習慣化することによって成し遂げ易くなる、と伊藤仁齋は言う。難しいので厳しい修行が必要だと言ったのが朱子。それに対して、仁齋は、毎日すこしづつ実行することから始まると言う。

 仁愛を鍼灸に置き換えても、仁齋が考えたことは、なかなかに意味深い。

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿