2015年3月16日月曜日

あい忘る(2)

 

 2月9日のブログで、

 森共之編の『意仲玄奥』は、御園意斎(1557~1616)に師事した森家の秘伝書である。意斎には、初代の宗純と、その次男の仲和が師事しているが、とくに仲和は子供の時から師事していて、上工のほまれ高かったようである。その孫が共之で、仲和の弟子の大槻泰庵のノートを元に、自流について整備した秘伝書である。

 と書き、次の文章を、引き合いにだしました。

 「腹脈診法の要訣。此れ共之、多年の修行、晩年に至り得る所なり」「医者の手指と、病人の皮膚と相い忘れて後に方(はじめ)て吉凶死生を診得すべし」
 この森家の四代目の森共之16701746先生は、実は『老子』の研究家だったようです。

 共之先生が講述したものの記録『老子経国字解』が、内藤記念くすり博物館に所蔵されています。明治二十三年の写本ですから、原本ではありません。

 そこには、「予、三十六歳の時、始て之を読む。文義をば弁せざるといえども、一向に好み読む。先生に就き、講説を聴き、それより六十余歳、憶誦すること一万遍。自然に通暁すること有るがごとし」とありました。

 『老子』を愛読し、鍼医をしていたことになります。つまり、森家に伝わる鍼術を理解するためには、『老子』が欠かせないと思っていたのにちがいありません。『老子』を読んで、臨床家としての宿題「相忘る」を生涯の課題とし、晩年になって「相忘る」の境地に達したということです。

 長年の臨床のすえに結果として「相忘る」に至ったのだと考えていましたが、そうではなく、課題として取り組みつつ「相忘る」に到達したのである。おそれいります。

 『意中玄奥』に「此の書、軽易に見了するべからず。只だ、意を用いて翫味せんことを要す」とあり、精読すべきことをいう。共之先生の『老子』に対する心構えとおなじい。

 『老子』から推測されることは、夢分流は、『老子』あるいは老荘思想ととても近しい医術であること。この基本がわからないと、いかに鍼術に長けていたとしても、未成、未明におわるのでないでしょうか。江戸時代の初期に大いに流行した夢分流が衰退した理由は、この当たりにあるのかも知れません。

 もし、夢分流を、現代に復活させるならば、『老子』『荘子』は必読書にしなけれならない。そこが欠けては、夢分流の復活は、成らぬのではないだろうか。






2015年3月2日月曜日

新内小唄(丹澤先生)

 昨日(3月1日)は、丹澤章八先生の、新内小唄の発表会に行きました。80代からの挑戦のようです。

 丹澤先生のみどころは、興味津津力と、その行動力である。興味がわいてきたときは、年齢とか、体調とかを忘れて、猪突猛進してしまうのだ。その壁の無さを、学んでいる。

 学問の方向性とか、生き方とか、おそらく違う道の先生なのだろうけど、その壁の無さを、ありがたく学ばせてもらっている。それだけでも余り有る。

 
 医師であり、成城学園在住であり、見た目、品性、知性、その個性と、面する者は劣等感が生まれ、尻込みし、距離を置くようになる。しかし、学ぶということにおいて、医師であることも、成城学園在住であることも、見た目も、なにも関係ない。そのなにも関係ないところを気にするので、みなさんは丹澤先生は近寄りがたいと言う。けど、「壁の無さ」を学ぶに、これほど良い先生はいないでしょう。

 「鈴木大拙全集」を持っている。これだけでも、なみなみならぬ人物であることは了知すべきである。不学のゆえに、有学者と一線を画するのではなく、有学者と和して、その薫風に浴するのも、ひとつのしあわせなのであります。

 丹澤先生をみていると、育ちの違いを感じます。それは、丹澤先生が造りだしているのではなく、自然に出てくるものでしょう。つまり、作為ではない、自然のオーラなんですが、人によっては、近づきがたいかも知れません。成金のオーラも近づき難いのですが、それは人為的な、不自然なオーラです。自然のオーラに対しては、こちら側が不自然にならなければ、つまりこちら側が作為をもたなければいいのです。こういうことを、「自然法爾」というのであろう。「鈴木大拙全集」にも書いてあったそ。