2019年4月26日金曜日

かまちよしろう

 4月21日の鶯谷の勉強会のあと、近くの錦華楼で最後の打ち上げ。

 2015年に行われた第43回日本伝統鍼灸学会学術大会での懇親会の出し物で、1位2位をとったので、錦華楼で打ち上げをしました。4年前のはなしですね。出し物のコンテストでは、独唱あり、太極拳あり、というところで、ぼくは、大根踊りと、仙台すずめ踊りで、衛生学園の専攻科の学生たちと、披露しました。それで、1位2位を獲得し、賞金を得たので、錦華楼で打ち上げをしたというわけです。

 打ち上げの日、錦華楼には他に年配のグループがいたので、かくかくしかじかで騒がしいですがよろしく、とあいさつして、ついでながら大根踊りとすずめ踊りを披露しました。その返礼として、かまちよしろうさんが「哀愁の犬サブレ 黄色」というのを歌ってくれました。歌詞は、ぼく好みのナンセンスなもので、とても印象的でした。あとで調べると、かまちよしろうさんは漫画家で、ナンセンスマンガの谷岡ヤスジのアシスタントだったようです。なので、歌もナンセンスなのでした。
 
 その中で「日陰の道を信じて歩く」という下りは、『老子』をおもわせるほどです。それいらい、またかまちさんに会いたいという思いが募っていました。

 それが偶然というか、4月21日の打ち上げの目の前にいたのです。見たとたん、挨拶に行って、あとで歌ってほしいとリクエストしました。本人がいて、歌を聴いて、とても感動した、思い出の錦華楼でした。

 

木香バラとさつき

 いま、家の前の歩道はさつき満開。家の木香バラも満開。すばらしい。
 木香バラは、かおりが信号のところまで満ちているようです。ところが、僕はといえば、その木香バラのかおりが、相変わらず、わからず。ヨコシマなのでしょうね。


2019年4月20日土曜日

古典のよみかた

 20代後半に島田先生の門に入ってから、今頃になって、古典の読み方がわかってきたような気がします。大器晩成(大器は成らず)というか、自分でも遅いなあとおもいます。

 やっぱり『論語』は欠かせません。シンプルな言葉から、どれくらい意味を拾い上げることができるか。そのためには、孔子の年齢、その時の状況、対話者の年齢、性格などを踏まえて、頭の中でイメージするわけです。さらに、類似の発言が無いかどうか。単に文字を追うだけでなく、総合的に読まねばならないのです。そういう訓練をしておけば、ほかの古典はおもしろく読めるわけです。

 つぎは『老子』でしょうか。反孔子というスタンスで書かれているらしいので、あらかじめ『論語』は読み終わっていなければなりません。『論語』のどの文面に対して、老子がコメントしているのか。これがわからないと、とんでもない方向にいきそうです。老子の宇宙論とか、老子の養生学とか。『老子』は、わかりやすく書かれているはずなのですが、とっても難解です。なぜ、このことを言い出したのか、どのような連続性があるのか。それを解明する作業が、なんとも面白いのです。

 

2019年4月18日木曜日

N360

 林望の『ついこの間あった昔』(弘文堂)は、すきな本のひとつ。昭和を記録した写真と、それについてのコメントからなっている。

 林氏は、1949年生まれで、7歳としうえ。大学に入ったとき、ホンダのN360という車を買ってもらって、慶応大学までクルマ通学だったそう。結構なお金持ちだったのでしょう。こういう人が書く文章は、なんとなく余裕があるように感じます。

 農大の同級生にも、いすゞの117クーペを持っている奴がいたし、ホンダのシビックを乗っている奴がいたけど、どちらも東京の人。117クーペくんは、初台(渋谷区)に家があり、今思えば、相当な金持ちだったのだろう。シビックくんは、お花茶屋(葛飾区)というところに家があるとのこと。クルマを持つことはうらやましかったけど、身分不相応で、強く望んではいませんでした。むしろ、4畳半に住んでいたから、6畳が望みでした。

 その中の写真。老婆が上半身裸でお茶をいれています。僕の祖母も同じようなことをしていたので(つまり50数年前)、おどろきはしないのですが、今では考えられない風景です。おそらく60歳くらいの方でしょう。電車の中での授乳をみたことがありますから、必要があって乳房を出すことは、当たり前だったのかもしれません。

 この半世紀で、日本国、おおきく様変わりしています。様変わりの前後をみている者としては、こういう本は、とても懐かしいのです。



 

2019年4月15日月曜日

富みにして

『論語』述而篇に「富みにして求むべくんば、執鞭の士といえども、吾れ亦た之れを為さん。如し求むべからざれば、吾が好むところに従わん。」(富貴が求めて得られるのであれば、賎しい職業の執鞭でもやろう。しかし、求めて得られるものでないのであれば、自分の好きなことをしたい。)

 孔子は晩年、自分のやりかたを認めてくれる君主をさがして諸国を遍歴しました。食べ物がなかったり、襲われたり、相当な苦労しました。その原動力はどこにあるのか、長く案じていましたが、冒頭の句が解答のような気がしてきました。

「吾が好むところ」というのは、「好きなこと」という意味で問題ないのですが、吉川幸次郎は「私の生活の自由を保持して、好きなように生きたい。理想のために生きたい」と解説しています。なるほど、この中の「自由」が重要なポイントのようです。

 自由とは、心の制限が無いことであり、私利私欲がないことであります。孔子にとって好きなことは、理想の政治の実現なのです。だから、困難があるとわかっていても、突き進んだのだと思います。私利私欲があれば、困難があるなら、前進はしないでしょう。尻込みするかも知れません。

 さて、自分の好む所(本当にやりたいこと)は・・・ 

2019年4月13日土曜日

忖度と切診

 近頃、忖度という熟語が、ニュースに流れ、忖という字がよく見られるようになりました。ついでに、切診についても考えてみました。

 漢代の『説文解字』に「刌、切也」とあり、清代の段玉裁は「詩、他人有心、予寸度之、俗作忖、其実作寸作刌、皆得如切物之度其長短也」と注しています。

「詩、他人有心、予寸度之」とは、『詩経』小雅・巧言に「他人有心、予寸度之」という句があることで、他人に心有らば、予め寸度(すんたく)する、という意味です。

「俗作忖」とは、寸度は俗に忖度(そんたく)と書くということ。

「其実作寸作刌、皆得如切物之度其長短也」とは、実際は、寸度と書いても、刌度(そんたく)と書いても、いずれも物を切るときに長短を測る(度)意味を持っている。

 忖は推し測るという意味で、段玉裁によれば切も推し測るという意味があるようです。脈診をするところを寸口というのですが、一般的には手首から肘にむけて1寸下がっているから寸口だというのですが、一理あるとして、個人的には「体内を推し測る入り口」という意味だと考えています。蔵府のこと、経脈のこと、気血水のこと、名人になれば、なんでも寸口で推し測ることができます。あえて、腹診したり、背診したり、切経しなくとも、なんでも分かるのです。いずれにしても、切には推し測るという意味があります。

 中国の古代思想家の陰陽家がいうには、敢えて寒空で天体観測しなくても、天体の運行予測システムさえ完成すれば、部屋の中にいても天体観測はできるのだ。まさに、寸口は部屋の中なのです。寸口こそ陰陽家の発明に違いありません。