2014年5月19日月曜日

白鵬迷い無し

 5月19日、白鵬と遠藤のとりくみ。
 白鵬は、電車道で、1秒もかからず、勝負をきめる。勢いのまま、遠藤とともに、土俵下に落ちる。横綱なれども、初心どおりの相撲。遠藤に手加減しないし、自分にも手加減しないところに、相撲を知っているというか、相撲道を覚っているというか、すがすがしさを感じる一番でした。

 『素問』上古天真論篇に「其の民、朴と曰う」とあるが、白鵬を指すのではないでしょうか。

 相撲みながらでも、『素問』を解釈できるようになったのは、ありがたい。『素問』を読むだけが、『素問』読みでなく、いろいろな経験や知識、その視点からも『素問』を読むことができるならば、あえて机の前に坐っていなくとも良いのである。

  『素問』無くして、『素問』読む。
 無素問の素問。(無用の用のぱくりですが。)
 

2014年5月6日火曜日

志を鍼に在らしむ

 「志を鍼に在らしむ」とは、『霊枢』終始篇のことばで、原文では「令志在鍼」である。鍼治療の極意を述べている。志とは、こころ。神、精神、気持ち、意識などと、ほぼ同じい。

 これを「精神を鍼先に集中する」と読むか、「精神を鍼先に移す」と読むのでは、だいぶ違う。

 「精神を鍼先に集中する」のは、精神集中(一神)した本人の延長線上に鍼先があり、いかにも理想的だが、本人には一神が存在していて、力が抜けていない。鍼の存在を意識しながら、鍼を使っている。もちろん、この域に達するのも簡単ではない。

 「精神を鍼先に移す」というのは、精神を集中させ(一神)、それ(一神)を鍼先に移すこと。一神を鍼先に移せば、本人は無神になる。無神は、無我にも通じ、無為にも通じる。無我になって、鍼を運用するとは、鍼を持っているが、鍼を持っていない、鍼をわすれていること。こうなると、究極の鍼師だな。

 無神の状態は、スポーツ選手によく見られる。稽古場では横綱くらいに強いが、本場所となると勝とうという意識がはたらいて平幕どまり。そういう力士がいるらしい。白鵬は、純粋無垢、無意識に近いようである。ただ、稀勢の里の時だけ、稀勢の里に精神が集中してしまって、時に負ける。

 『霊枢』終始篇に、このようなことが書かれているらしい。(自前の解釈だけど)