2013年3月5日火曜日

部の発想と伴の発想

 東京新聞(平成2532日付け朝刊)に連載されている玄侑宗久さんのコラムに、少しばかり啓発されたので、考えたところを記録しておきます。

 空港に迎えに来てくれた女性スタッフは、夕食後に頼んだマッサージさんだった。ホテルで出迎えてくれた40台の男性が、お茶を持ってきて観光スポットの案内をしてくれ、翌日は大島紬の解説もしてくれた。その人は実は支配人だった。夕食後に稿の校正をして、ファックス送信をたのみにフロントにいったら、送信してくれたのは料理長であった。


 このような掛け持ち仕事におどろいて「いったいこの島には部署という概念がないのかと呆れ」、しかし「よく考えると、これは奈良時代に朝鮮半島から部(べ)の民と呼ばれる職能集団が入ってくる以前の、伴(とも)という日本古来の仕事形態なのである」という。

 この部(べ)の話に、大いに啓発された。部は専業で、伴は掛け持ちである。部の民は、中国ではよく見かけた。自分の仕事以外は、まったく手を出さないのである。手が空いているなら手伝えばいいのに、忙しいひとを横目に一生懸命おしゃべりしている、あれが部の民ということなのだ。

 部とは、区分けすることで、その代表は蔵象だろう。 『内経』を部で検索すると、かなりある。三部だの、脈部だの、藏部だの、皮部だの、だのだののオンパレードである。『内経』には部の発想がだいぶ入り込んでいるようだ。区分することで効率が良くなるし、曖昧なところが無くなってくる。

 しかし、生きている人身、効率よく区分できないところは、多々あるだろう。京都の植藤さんが「自然にマニュアルはありませんな」と断言した通り、伴の発想がなければ対処できないかも知れない。僕自身は、伴的かも知れないので、部的な『内経』に手をこまねいているところがある。『内経』を伴の発想でよみ直したら、どうなるだろうか。これは楽しみである。

 物事の発想は、毎日の生活とは、切り離せないと思う。いろんなことをかけ持ちしている人は、物事は単純に割り切れないと気づく。専門にする人には、かけ持ちできる心理が理解しにくいだろうし、違和感があるに違いない。

 もし、伴的な鍼灸があるとすれば、真に理解・実践するためには、毎日の生活が伴的な発想が必要となる。臨床でいえば、多面的な観察、多種多様の技法などがもとめられるだろう。

 「それは腎ですか、肝ですか?」「それは虚ですか、実ですか?」ととわれて、回答の言葉を濁している人がいれば、おそらく伴的な頭の人ではないだろうか。


*冒頭のコラムの複写は、鶯谷書院にきて頂ければ、10円でおわけします。