2018年2月28日水曜日

金沢の底力

 金沢で、高級店でなくても、普通の居酒屋でも、お椀もお箸も漆塗りでした。いずれも、きずつき易い部分を補強した「布着せ」がほどこされていました。お皿にしても、大量生産品じゃないようです。九谷が交じっていたり、ふるいお皿が活躍したりしてました。金沢市か、石川県全体で、そうした産業を大切にしているのがよく分かります。同時に、美に対する意識の高さにおどろきました。東京文化に流されていない、京都文化とも違うような、独立国のようなプライドを感じました。

 テレビを見てたら、醤油を仕込む木桶を作る最後の業者が2020年に廃業するということで、味噌業者は自前で木桶を作らねばならなくなっているとのこと。木桶で醤油を仕込む業者も少なくなっているそうです。こだわって木桶を使っている小豆島の醤油屋の山六さんの奮闘振りが頼もしい。

2018年2月23日金曜日

抜本的見直し

 草津白根山で、1993年から噴火予知を続けて、東工大の野上教授は、「山が何のサインも出さないのに噴火するなら、何を観測すべきなのかを見直す段階に来ている」という。

 噴火から1ヶ月。1人の死亡者、11人の負傷者をだしたのは、教授のせいでは無いけれど、予知しようと25年も研究したのに、予知できなかった研究者の苦悩がにじむ。

 確からしい原則(火山活動に伴う地震で予測)にしたがって研究を始めたのだが、その確からしい原則が不確かだったのであった。確からしい原則の模索が、さっそく始まっているでしょう。

 世界で質が極めて高いとされる研究論文の生産本数は、
  20年前~10年前:1位アメリカ、2位イギリス、3位ドイツ、4位日本
 という指定席だったのですが、
  2013~2015の3年間の平均:1位アメリカ、2位中国、3位イギリス、4位ドイツ
 と中国の進出がめざましく、日本は追い出されてしまった。日本はどこに行ったかというと、フランス、オーストラリア、カナダ、イタリアに続く9位まで順位を落として、凋落振りが目立っている。

 研究をバックアップする国力の違いなのでしょうか。個人の奮闘に任せている現状が続くようだと、いつか個人の息切れがやってくるし、後継者難がやってくるでしょう。個人頼みの日本鍼灸、果たしてどうなるやら。

2018年2月19日月曜日

夜咄の茶事

 昨日は、年に一度の、夜咄(よばなし)の茶事。阿佐ヶ谷の星岡において。
 夕方5時に始まり9時終了。懐石料理、濃茶、薄茶。
 照明は、蝋燭と行灯。暖房らしきは、炉のみ。4時間、ほぼ江戸時代。畳に正坐、寒さ、暗さ、静けさ。

 小学生の同級生の菅井くんの家は、小石浜という集落から一山越えた先にあって、小学6年の時にようやく電気が通じました。つまり、50年前まで江戸時代と何ら変わのない生活をしていたのです。よく遊びに行きました。行き帰りは山道を辿って行くのですが、時に帰りが1人になると、クマが出るのではないかと怖くて、走ってかえりました。

 2軒のみの集落で、田圃と小川がありました。井戸ははねつるべというもの。かすみあみで、小鳥を捕まえていました。キノコ取りにも行きました。ちかくに射撃練習場があって、皿を飛ばしてそれを射つらしく、バーンという音がよく鳴っていました。農村というより、原農村で、貴重な体験でした。

 昨日の夜咄で、菅井くんの家がよみがえってきました。



2018年2月12日月曜日

孔子と老子②

『論語』の雍也篇に「今、なんじは画(かぎ)れり」(今のおまえは自分からみきりをつけている)という文章があって、力は足りないと腰が引けている弟子の冉求を説教しています。孔子の説く道が、遠く険しいので、自分には歩ききれないから、自分で見切りをつけたのです。

 なぜ遠く険しいと思ったのか。仁斎は「この道が高いことだけをみて、初めはそれほど高くないことがわからない。この道のなしがたいことだけを見て、根本はそんなにむつかしくないことがわからない」と解説する。ようするに冉求は、高い壁を見て畏れているだけで、そこを登る階段があるのに気がついていないというのです。

 仁斎の説明は、『老子』六三章「天下の難事、必ず易きより作(おこ)る」に近い。どんな難しいことでも、一歩ずつ進めば必ず成し遂げられるのだ。しかし、仁斎は『老子』を参考にした気配がないから、『論語』『孟子』の中から孔子の素意をあぶり出したのだと思われる。

 いずれにしても、仁斎にも、老子にも、「難しいこと」は無いようである。

孔子と老子


①孔子在世→没後は孔子の真意が失われる→孟子が補益する
  この流れで、伊藤仁斎は『論語』と『孟子』を教材とする。

②孔子在世→没後は孔子の真意が失われる→老子が補益する
  この流れで、『老子』を標準にして、『論語』を読み直すこともできる。

 いま、考えているのは、以上のようなことです。

②でいえば、
老子の書を能く通暁して論語を読むときは、夫子の寛裕、舒泰、温和、宥恕の気象を知り得て、後世の儒者の厳粛、刻迫にして、努めて小人を去り、愚昧を悪むことは、夫子の教と大に異なることを覚るべし。」-森共之『老子国語解』
 『老子』の大意を知ると、孔子が「寛裕、舒泰、温和、宥恕」の大人物であることがよく分かる。反対に、朱子学者の「厳粛、刻迫にして、努めて小人を去り、愚昧を悪む」という態度は、孔子とは大いに隔たりがあると言っています。

 ②の態度で、仁斎を読むと、孔子の真意がわかりそうなのです。孔子の真意が分からないと、いつまでももやもやなのです。

 一貫して編集された古典ならば、その大意は一すじであろうけれど、『素問』『霊枢』となると、論文集なので、大意を推しはかることはとても難しい。それが、難読たるゆえんかも知れません。だから『素問』『霊枢』も、いつまでももやもやなのです。
 



2018年2月8日木曜日

小田急線

小田急線の電車のつり革は、おしゃれ。色気といい、細身のぐあいといい。真っ黒で無骨なつり革がぶら下がっているJRとは、だいぶおもむきがことなる。

 小田急の社内アナウンスも、日本語と英語。毎日聞いていたら、いつのまにか英語に慣れて、英会話学習もはかどるのではないかと思える。

 いつも小田急に乗っている人は、当たり前、日常だから、「だから?」と言われそうですが、年に数回乗る人にとっては、興味津々なのです。

 『素問』上古天真論に「其の俗を楽しみ」は、俗習(毎日の当たりまえ)を当たり前に受容することである。小田急に乗っている人は、気がつかないのだろうけど、楽しんでいることになる。

 反対に、大宮から出る野田線は、かなりローカルな雰囲気です。快速も急行もなく、ただモクモク走るのみ。これまたいいです。野田線の乗客も「其の俗を楽しみ」ということになります。

 いずれにしても、自分の置かれている状況を当たり前に受容し、(不平不満を言わないことが)「楽しみ」なのです。