2013年8月12日月曜日

先生方、飢えているなあ

 8月6日(火)に、東洋療法学校協会の教員研修会で講演をしてきました。聴衆は、教員の他、校長、理事長らの面々、260人。「初心にかえれ-原典に学ぶ」と題して、90分講演をしました。

 
 11脈と12経脈の違いを話し、ついで後藤艮山の一気留滞説に触れました。出土文書の話なので、しらけるのではないかと、中身をわかりやすくしてみました。プレッシャーでしたね。

 話しぶりも自慢できるものではなく、拙い講演だなあ、と反省しましたよ。でも、不思議。アンケートによれば、40パーセントがとても満足、35パーセントが満足、でした。

 自由記入の欄を概括すると、「東洋医学の情報に飢えている」姿が、浮かんできました。でも、探せば、あちこちに論文があるから、そんなに情報が足りないというわけではない。そうすると、探して、読んでいる、暇が無いのかも知れません。

 懇親会では、現状をなんとかしたい、という話をする人が多かった。教育内容に不満があるものの、国家試験が前提であるならば、いたしかたない。そして、困惑している生徒を目の前にして、どうしていいのかわからない先生方がたくさんいました。生徒が嫌いな教科が、東洋医学概論。先生が教えたくない教科が、経絡経穴概論、ですって。

 いずれにしても、先生方は飢えている。かれらにに栄養をあげられないのは、先輩としての怠慢だな、と心強く思った次第。

*講演は、いつでも、イヤですね。今回は、特に。一月前から、内容を練り、これでいいかなと思ったところ、実は5日前に気が変わって、中身を一新しました。ああ、疲れた。

2013年8月9日金曜日

父の石臼

 父は、昭和35年ころ、赤門の鍼灸学校に入って、亡くなる昭和61年まで、鍼灸を業としていました。昭和38年4月に免許をとって、借家を宮城県松島町に確保して、その年から、松島町に移りすみました。子供4人と母親は、母親の実家(宮城県塩竃市浦戸野々島)に、3年ほどいました。

 鍼灸学校に入る前は、宮城県豊里町というところで、煎餅屋をやっていたそうで、それを切り上げて、鍼灸の道に進んだようです。下の写真は、煎餅屋で使っていた石臼で、母の実家にあずけておいて、そのまま放置されていたものです。このたびの津波で、母の実家の家屋敷が壊され、塩竃市が一括して解体し、すべて撤去して、更地にしました。そのとき、この石臼が出て来ました。裏返しにとりのこされていました。このたび、だんどりがついて、松島の実家に帰ってきました。感無量であります。

 同業とはいえ、父親とは縁が遠く、まったく親不孝ばかりしたと思っています。何一つ、期待に応えられず、忸怩たる思いがあります。せめてもの親孝行と思い、実家に持ち帰ってきました。

 
 農家の次男で、戦争から帰って煎餅屋をやり、はり灸に転じました。頭の良い人だったらしく、隔世遺伝して孫たちに優秀なのが出ていますから、確かにそのような血筋があるのだと思います。字はうまくて、賞状書きなどもしていたようです。

 治療院といっても、住居と兼用で、居間が待合室で、父の寝室が治療室です。このころ、昭和40年のころは、丸山先生が素問・鍼経の研究をしていて、島田先生は学校に入って、出たかというころ。それから50年たって、鍼灸の世界もだいぶ変化して、世の中に認められるようになりました。隔世の感があります。