2017年10月28日土曜日

『老子』読み終わる

 第4土曜日6時~8時で、一昨年の11月から読み始めた『老子』は、今日読み終わりました。一人で読み切ることは難しいので、仲間と読み終わって大満足です。一人で読めば、表面をなぞるだけしか出来ないのですが、仲間と読めば、いろいろな意見、体験などが出てきて、より深く読むことができました。万金に値します。ありがたいことです。

 参考になったのは、蜂屋邦夫訳注(岩波文庫)、沢庵の『老子講義』、森共之の『老子国語解』。沢庵の『老子講義』は明治時代の刊行で、それでも古書市場に出ていますので手に入れることができます。森の『老子国語解』は貴重本です。鍼師の治療に必要と思われる思想書として『老子』を選び、注釈をほどこしたものです。データ入力は済んで、校正している最中です。わたし達の大先輩の森の業績を、世に問うことは、わたしたち(鍼灸師)の努めであると思っています。

 来月からは(第4土曜日6時~8時)、岡本一抱の『阿是要穴』を読む予定です。興味あるかたは、ご参加ください。どなたでも参加可能です。参加費500円です。

『老子』63章に「天下の難事は、必ず易きよりおこる」とあり(好きな文句でもありますが)、こつこつ、少しづつ、積み重ねていくのが、王道だと思います。その一歩が踏み出せないから難事になる、というのです。千里の道も一歩から。正しい道か、誤った道かはわかりませんが、まずは一歩!


 
 

2017年10月26日木曜日

曲直瀬道三『啓迪集』

 11月5日(日)18時~21時、丹塾の勉強会があります。

 前半90分、僕が当番で、便秘を題材に、曲直瀬道三『啓迪集』を読みます。かつて、『現代語訳 啓迪集』の婦人門を担当したきりで、読むことは無かったのですが、今回は、ちょっと題材にしてみました。

 よく読むと、現代医学的にみてもほぼ的を得た内容で、よく目の行き届いた医書だと思った次第です。弁証論治の先駆けでもあるのですが、行き届いたという面では、現代の教科書にしても良いくらいです。鍼灸治療については書いていないのですが、基礎医学書として、鍼灸師も読まなければならないと思いました。

 時間が空いていたら、丹塾に来てみませんか?
「丹塾」で検索してみてください。参加費500円ですよ。

2017年10月23日月曜日

精を出す

 昨日の丹塾古典部では、沢庵『医説』を引き続き読みました。

 丹精を込める、精力を尽くすのは、腎にやどっている精の力に由来する。合わせて言うなら腎精であるが、二つの意味が込められている。たましいとしての腎精と、生殖能力としての腎精である。

 『医説』で問題にしているのは、たましいとしての腎精であり、「気を使ひ、物に精をいだし、もの多くいひ、高声をいだしなどし、力を出しなどすれば、末の精からつくして、本へこたふるなり」といい、最終的には腎(本)を損なうのだという。性的行為だけでなく、老化だけでなく、力を出し精をつくすと、腎を損なうのだという。こういうことは、誰も言ってないと思う。よくよく踏み込んだ人なのである。

 腎精の能力が高いひとが、気配りするには、さほど損なわないのだろうけど、腎精が低い人が、気配りしてしまったら、損なうこと大である。気配りするしないの問題ではなく、腎精の高低なのである。腎精の高低に気づくことである。腎精は、生まれ持ったたましいであるから、無心になって自分をみつめないとなかなか、その高低はみることができない。第三者が見て上げるとしても、その人も無心にならないと、こころの奥底にあるたましいはみえない。のであるから、とても難しい。

 『医説』を読むと、沢庵は無心の人だなとつくづく思う。「なんで沢庵なの?」と問われるが、この医学を客観的にみてくれる人なので、とても啓発されるからであります。


 

2017年10月18日水曜日

論語古義~金沢大会

 伊藤仁斎著『論語古義』を読む。とはいっても、貝塚茂樹先生訳です(中央公論社、日本の名著 13)。

 学而篇の「人の己れを知らざるを患(うれ)えざれ。人を知らざることを患う」

 吉川幸次郎は「自分が人から認められない、というのは、自分の悩みではない。認められるような点がない、というこそ、悩みである」と訳す。

 仁斎は「学者は他人が自分の善を知らぬことをなやまず、自分が他人の善を知らぬのをなやむべきであることをいわれた」と訳す。

 そして「思うに善が自己の中に存在しなければ、他人の善を知ることができない。それで君子は他人の善を知らないのをなやむのである」と追記する。

 深耕の度合いが格段に違う。一通り古典が読めるといっても、これだけの差がある。この学問に一生をかけた仁斎のたましいが、この文章だけでも読み取れる。

 伝統鍼灸学会学術大会の実技供覧は、かつて興行的だという批判があるところで、学術大会なのだから、討論の時間を増やせ、研究発表の機会を増やせという意見があった。学会を客観できる立場になって、学術大会をみると、その意見の通りだとおもう。

 おそらく、わたし達に、学問軽視かどうかわからないけど、実技重視の意向があるのだと思う。両方は一緒のものであり、偏重は好ましくないと思う。さらに、「見て理解する」だけでなく、「考えて理解する」ことは、避けずにやらねばならない。

 金沢の学会に参加しての感想でした。むりやり、古義と大会を結びつけてみました。

 

2017年10月15日日曜日

(金沢)用水沿いに

 日本伝統鍼灸学会のため、金沢にきています。二日目、市内を(沢庵師のまねをして)歩いてみました。約3時間。おもに、建物見学でした。足軽屋敷、老舗、千石級の屋敷など。足軽屋敷は、丁度わたし達の家の程度。観光客さん、ぱらぱらと居ました。多くの方は、金沢城、兼六園に行っているのだと思います。

 その当たりから折り返して、鞍月(くらつき)用水のわきを、水音を聞きながらかえってきました。犀川から取水していている用水で、滑らかに流れていました。町の中に用水が流れているのは、潤いがあっていいものです。金沢には用水が多くて、55本もあるのだそうです。

 街を設計した人に聞いてみたいですね。用水をはりめぐらしたアイデアを。誰に教わったのか。何をヒントにしたのか。時々、直角に曲げているのは、なぜなのか。
 
 
 



2017年10月9日月曜日

ソウルフード

 10月8日は、33回忌で松島へ。生まれは大正6年で、丸山先生と同じで、生きていれば100歳。松島瑞巌寺での法要ののち、墓参。

 会食は、塩竃の「千松しま」。同級生の色川くんのお店です。そこそこ有名らしい。会席料理というのでしょうか、材料を吟味し、技をつくした料理がならびました。おいしいのには間違いないのですが、微妙にこころが満たされないのです。田舎に生まれた者が、都会料理を食べても、背伸びした分、満たされないのだとおもいます。

 今年は、茹でとうもろこしを、数十本たべました。子どもの時から食べている、つまりソウルフードを食べるのが、一番安心します。地に足が着いていないとかいうけど、食べ物でも言えるようです。食べ物の質・量だけで片づかない食養生というのがあるみたいです。
 
 仙台駅では、偶然にも、先輩鍼灸師の樋口秀吉先生にお会いしました。あんな人混みの中で。
 

2017年10月2日月曜日

沢庵師健脚なり

 沢庵和尚は、紫衣事件によって、山形に流され、上山市に蟄居する。罪を許され、京都に帰り、ふるさとの但馬に帰るが、また江戸に呼び出される。この間、6年。ぼくの年齢に近いので、ちょっと調べてみました。

 57歳:奈良から江戸に呼び出される。判決が出て、7月に山形に向かう。
 58歳~59歳:上山にて蟄居。
 60歳~61歳:家光に江戸に呼び出される。江戸に逗留。
 62歳:許されて京都に帰る。その後、兵庫の但馬に帰る。
 63歳:江戸に呼び出される。

 奈良江戸(481キロ)江戸上山(357キロ)上山江戸(357キロ)江戸京都(492キロ)京都但馬(144キロ)但馬江戸(613キロ)。
 63歳にして、613キロ。1日30キロとして20日間。たいへんよく歩いてます。

 生来の病弱で、曲直瀬流医学を独学。71歳で没する。医者ではないものの、医学に真剣な態度は、わたし達の亀鑑でもある。すべての面において、かがみである。