2014年10月20日月曜日

臨床50年

 昨日(10月19日)は、藤本蓮風先生の臨床50年を祝う会に参加してきました。

 臨床50年を数える人は、選ばれし人。故人では、岡部素道先生、小野文恵先生、現役としては首藤傳明先生、伊藤瑞凰先生がご活躍中。野球で言えば、名球会入りみたいな感じ。

 天寿100歳として、鍼灸家ならば、臨床70年は目標とすべきかも知れません。がしかし、鍼灸家が折寿している現在、臨床50年は、輝く金字塔といえる。今後は、70年を目指して欲しいところである。

 ところで、藤本先生に『弁釈 鍼道秘訣集』という著書がある。本人は、27歳で書いたという。出版されたのは、もう少し後だが、それにしてもなんと早熟なことか。派手な印象はあるけれど、とても地道な人であることは間違いない。地道な下積みを重ね、着実に成長し、開花をみたのであるから、本人は鍼狂人と自称するけれど、実にまっとうな先生である。藤本先生のみどころは、実に足元なのである。
 
 
 
 
  
 後進には、その開花をものまねせずに、下積みのところをよく見て、地道に進まれんことを、切にねがうところである。

2014年10月6日月曜日

迷い無き前進

 島田先生が亡くなったのは2000年8月。おそらく、その2年ほど前から、島田先生とテニスのラリーをしたくなって、テニス教室に通い始めました。

 以来、15年、欠かさずに通っています。その間、コーチが何人か変わりました。コーチそれぞれに教え方があって、特徴があります。

 今のコーチは、一番、合っているような気がする。何が合うかというと、前に歩くように打て、というんです。横で打たないで、前で打てというんです。遅めのボールならなんとか出来るのですが、速いボールだと、反応が遅れて、横で打つようになります。それでも前で打てというわけです。いつも頭の中は、前、前。

 テニスの技術としては特段のことは無いのでしょうが、実は『論語』とかぶっているので、納得がいっています。『論語』の核心は「仁」ではあるが、その他に「積極性」もあると思います。

 子、顔淵を謂う。惜しいかな。吾、其の進むを見たり。未だ其の止むを見ざりし。

 先生は顔淵について語った。死んでしまったのはとても惜しい。彼が前進しているのはよく見たが、彼が立ち止まったのは見たことがない。ためらいなく、よこしま無く、まっすぐ前進をつづける顔淵が、まぶしくて仕方ない、楽しそうに前進するのが羨ましくてならない。そんなセリフではないでしょうか。

 「進む」には迷いは邪魔である。

 迷った冉求(ぜんきゅう)という弟子は、「今、なんじはかぎれり」と叱られました。今、おまえは、迷っただろう、と。「かぎれり」は、原文では「画」で、「今、お前は自分から見切りをつけている」と訳される(金谷治)が、そうでは無いような気がする。

 「画」は、分画の意味で、ふたつに分けることであり、ふたつを天秤にかけることである。先生の道を進むことは自分には出来ないのではないかと冉求。その冉求を、出来る出来ないで迷っている、そのことがお前の前進をためらわせているのだ、「今、なんじはかぎれり」と。

 解釈はいずれにしても、「迷い無き前進」は、『論語』から教わり、テニスからも教わって、そして身につきそうです。そういう意味で、今のコーチは、良いのです。




 

鍼法の真髄

 9月28日の丹塾古典部は、『内経』の刺法、補写法についての条文を、関連づけながら読みました。これらの条文は、個人的には何度も読み、その都度、わかったつもりでした。

 今回読み直してみたら、やっぱりわかったつもりで、わかっていませんでした。一つの漢字、一つの語句、一つの文章の読み方が浅すぎました。『論語』を読むように、何度も繰り返し読まないと、真髄までは到達しないと痛感しました。さらに、ちょっと読んだだけでわかったつもりになるのは、『内経』に失礼じゃないかと思うようになりました。
 

 それでも、今回は、なんとなく鍼法の核心部分に近づいたような気がします。山頂が見えてきたというか。とはいっても、それが山頂なのかは、心もとない。

 『論語』は、教養のためにと読み始めたのだけれど、繰り返し読んでいる内に、古典の読み方の基本を学んだような気がする。わからないけど、繰り返し読んでいると、いつのまにか真髄に到達できるような感じがする。『内経』は分量が多いので繰り返し読むというわけにはいかないけど、大事なところは繰り返し読みたい。

 本の読み方にいろいろあるけれど、『内経』は精読するしかない。一回読んだだけで理解できる、そんなチープな古典ではなさそうです(他の古典もそうなのでしょうが)。 
 

 『論語』は医書じゃないから、読む必要はないのかも知れないが、古典の読み方を学ぶためには格好の教材。孔子の生の言葉、行動が記録されていて、脚色が無いのが何よりいい。お釈迦さまの説法を金口直説(こんくじきせつ)というらしいが、まさに『論語』はそれである。『内経』もそれなのである。今までは、肩肘張って、読み解くというような気持ちで、読んでいましたが、そうではなくて・・・・

「説法者と、漢字を挟んで、会話する」、9月28日は、そんな気持ちになれました。