2018年5月28日月曜日

上々の精工

『老子』45章に「大巧は拙きが若し」とある。

この部分の森共之(『老子国語解』)の解釈。

・小し智のある者は。己(おのれ)過ち有るときはあやまちと。人にしらさぬやうに。いひまぎらかせども。
・大智の人は。つくろひなく。過ちは。あやまちにして。速かに改めて。いひまぎらかしかざることなきに依て。拙きか若く見ゆる也。
・巧は細工の上手也。智巧は智慧才覚の。たくみなる也。
・拙は細工の下手也。又何によらず不調法なるを云。
・此の一句智の拙巧のみのことに非ず。上々の精工は。けつく(結句)不調法に見ゆるもの也。 

 もりかけ問題でいえば、「小し智のある者」は首相で、うまいこと言い紛らかしているけど、姦智(邪な知恵・悪知恵)なること疑わしく、かえって何時までも詰問を受けるはめになっている。小智がはたらいて、謝るタイミングを失ってしまったか。アメフト問題で言えば、日大の選手は、まさに大智の人。本来責めらるべき人だが、かえって高評価である。今回ばかりは、『老子』の言う通りと、合点したところである。

「上々の精工は。けつく(結句)不調法に見ゆるもの也」という文章で、妙工を連想した。妙工は、いかにも流麗な技術を持っていそうだが、そうではなく、不調法で、つたないように見える(こともある)。粗工と妙工の違いは、技の巧拙ではなくて、何か考えているか、たとえば「上手そうに見せようという意識」が有るか(有心)、何も考えずに行っているか(無心)、なのである。

 粗工、上工という表現があるところをみると、『内経』の時点で、こういう事が、はっきりわかっていたのでしょう。



2018年5月26日土曜日

妙工

鈴木大拙『東洋的見方』
「芸術ではテクニックということをいうが、そのテクニックでも、単にテクニックだけではだめで、その熟練がいくらあっても妙というものはそこから出てこない。そこにはやはり形而上学的無意識というものが働かんといかん。そこから出る者を妙という」

森共之『意仲玄奥』

「無にして刺し、無にして出すと云こと、凡そこの道理に通達せざるものは鍼工と云に足らず。また病を治することかたかるべし」


 テクニックのゴールは熟練工。

 それだけでは限りがある。無意識がはたらいて妙工、無心がはたらいて鍼工となると、別のステージの治療家ができあがるわけである。

 妙工は、『霊枢』九鍼十二原篇に「妙哉工独有之」とみえる。ただしくは「妙哉上独有之」であるが。

 「妙」これは上工だけが所有しているのだ。

 つなげてみると、『意仲玄奥』がいう鍼工は、妙工であり、『霊枢』九鍼十二原篇でいえば上工である。熟練工とは別次元の治療家なのである。次元が異なるので、要するに相手にならない。よって「鍼工と云に足らず」と素っ気ない。


 これで何となく、『意仲玄奥』の「無にして刺し~~」が分かったような・・・




2018年5月24日木曜日

高千穂在来

 この5字をみて、すぐ分かる人は、相当のそば通。その土地で昔から作られていたそばを在来といいます。高千穂在来は、宮崎県高千穂郷で作られた蕎麦です。収穫量が少ないかわりに、味と香りが濃いのが特長です。食べる機会が稀なのが、唯一の欠点です。

 今のそばは収穫量が多くなるように改良されたもので、味と香りは在来種からだいぶ落ちます。こちらのそばは、どれだけ背伸びしても、在来種にはかなわないでしょう。その分、おつゆとか、出しとか、総合で勝負するしかないと思います。

 在来をたべると、次元が違うなあ、とつくづく感じます。

 鍼灸師でも、次元が違う人はいるんだろうな、とつくづく感じます。たとえば、『意仲玄奥』が「無にして刺し、無にして出すと云こと、凡そ此の道理に通達せざるものは鍼工と云に足らず。又た病を治することかたかるべし」というのがそれです。無じゃない人を、まるっきり相手にしてません。

 スペインのサッカー選手が、神戸のチームに入るという。風貌は、素朴そのもの。虚飾らしきものみられず。となりに居た楽天の社長は真反対。うさんくさそう。(どちらもお金持ちだとしても)次元が違いそう。
 






2018年5月14日月曜日

真気というもの

 真という字は、道家文献(『老子』や『荘子』)に限定的に使われる、という特長がある。『内経』にも使われているから、きちんと理解するためには、道家思想を学ばねばならない。

 真は、道と同義で、真気とは道の気ということになります。道の説明は端折るとして、道と自然は同義とされていますから、真気とは自然の気とも言えます。
 (真気=道の気=自然の気)

 太陽がめぐりで、四季が変わるのは、自然の気がそうさせている。
 植物が、葉を出し、花が咲き、葉を落とすのも、自然の気がそうさせている。
 人が生まれて成長して老化して死亡するのも、自然の気がそうさせている。
 飲食をして、消化吸収して、体が営まれているのも、自然の気がそうさせている。
 体がいつもどおりに営まれているのも、自然の気がそうさせている。
 怪我をしても病気をしても治るのも、自然の気がそうさせている。

 自然の気を、医学的にいえば、真気ということになる。
 自然の気を、邪魔するもの、それが「心」。だから老子は盛んに無心を説くわけです。
 有心になるとどうなるかは、治りが悪い、いつもどおりではない、体が営まれない、早く老化する、という結末にいたる。ということを老子は気がついたらしい。

 半月ほどまえからじんましん。昼となく夜となくかゆい。原因をさかのぼれば、30周年記念事業。そもそも人前で話すのがストレス(有心)。真気(自然の気)を損なったので、いつもどおりの営みができなくなっているようです。消滅するのを、自然に待つしかないでしょう。真気というものを(じんましんのお蔭で)とても実感しています。

2018年5月7日月曜日

山を平らに歩く

 近年、イノシシやシカが増えて、農業に大きな被害が出ているとのこと。原因の1つに、高齢による猟師の引退があるそうです。同時に、後継者難と。では、若者に免許を取らせて、猟師を育成すれば良いではないかと思うのだが、1つの関門があるそうだ。

 それは「山を平らに歩く」ことだそうです。どんなに起伏があっても、平地のように軽々と歩けなければ、猟師にはなれないのだそうです。山を平らに歩くには、やはり若い時からの不断の訓練が必要で、定年退職して時間ができたから猟師をやろう、とは行かないのです。

 中国医学古典では、すでにある『内経』以来の文献のほかに、出土文物というモノが追加されているから、研究の守備範囲はだいぶ広くなっている。それに追いつくには体力がいるが、その体力を鍛えていないので、遠ざかっていくのを見送るしかない。

 中国医学古典を勉強するには、「古典を平らに歩く」という体力が求められる。その代表が、医古文学であるし、内経学である。この意味でも、「内経学」の確立は、急務だなあ。



鈴木大拙『東洋的な見方』

 岩波文庫の『東洋的な見方』は、いくつかの短い文章の集まりです。読むごとに、印象的な文章が異なるのが、自分では面白い。何度も読んでいるのですが・・

 以前には、禅に関する文章をよく読んでいたが、いまは浄土にかんする文章が面白い。印象をいえば、『老子』と浄土と、『荘子』と禅とが、一脈通じているようである。今とりくんでいるのが『老子』なので、自然と浄土に手がゆくのです。

『荘子』は、森共之先生が、「されば。老子と論語とは平易也。孟子と荘子の書は険詖也」というのが頭に残っていて、読んでいて面白いけど、手を出さないことにしている。

 険詖(けんぴ)とは、心がねじけて、よこしまなこと。性質が陰険で邪悪なこと。共之先生の批評はだいぶ厳しい。共之先生に言わせれば、老子は余計な知識、言葉は無用というのに、ムダにお喋りしている荘子は、いかにも老子の考えを踏まえていそうだが、老子の後継者じゃないのである。

 今回は、『東洋的な見方』「自力と他力」が心にしみました。こういうのが読めるようになったのも、嬉しいでした。

2018年5月3日木曜日

私利私欲・自己顕示欲

 自分の知識のために、自分の臨床にために、古典をよむ。それで完結しておきたいのはやまやまなのですが、冷静にみれば、それは私利私欲であり、『老子』をよむ者失格なのです。しかし、自分を顕示したり、手柄話らしく誇ることは、同じく『老子』をよむ者失格なのです。

 こんなことを考えて悶々しているわけなのですが、今、『医道の日本』に連載しているのは、『老子』にどう向き合うか、の試みなのです。私利私欲なのか、自己顕示欲なのか。

 専門家でもない者が、わかった風で古典解説するのはどうなのか。しかし、踏み込んで読んでいるのだから、専門家でなくても発表しても良いのではないか。発表した内容に対する、批判、批評がこわいかも知れない。

 かりに自分が発表したものが仕様もないだとしても、それが切っ掛けで良いものが生まれるならば、結果オーライなわけです。このように悶々した結果、『医道の日本』に発表しています。悶々したお蔭で、ふっきれたのです(いっときですが)。

 

 

2018年5月1日火曜日

『内経』を読み解く鍵は、血気、脈だ。

 昨日は、黄龍祥先生を招いての講演会、シンポジウムが行われました。先生は、長年の『内経』の研究から、『内経』を読み解く鍵は、血気、脈だ、と宣言しました。

 会場から、先生のおっしゃることは、九鍼十二原篇の「粗は形を守り、上は神を守る」と同義なのですか、という質問があり、黄先生は、その通りだ、とおっしゃった。

 しかし、質問者の意図と、黄先生の含意が、よく分かりませんでした。

「粗は形を守り、上は神を守る」にひとこと。

 九鍼十二原篇は、兵家思想を基盤にして書かれている。(この前提で読むと)「粗は形を守り」、粗工は、兵隊の数とか陣形といった現象(形)を観察する。「上は神を守る」は、上工は、この戦いの神気を観察する。

 サッカーの試合でいえば、先発メンバーのことや、向こうの作戦ばかりを重視する監督は、粗工である。勝ち負けは、一つのパスミスや、1人の戦意喪失で決まることが多い。これを神気を失うといいます。1人の果敢なプレー、タイミングの良い選手交代によって、戦局が逆転することもある。これを神気を得るという。このことを、上工は神を守るというのだとおもいます。

 神を訳せば、勝ち負けの転機でしょうか。病気が治るか、治らないか、その転機のことを神と言うのです。そうすると、気や血という問題ではないのですが。