2024年2月20日火曜日

コンクリートのがら

 我が家は、たんぼを埋め立てたところに建っている。

 土地を造成するとき、いろいろな物を埋めたらしく、多いのがコンクリートのガラ。それが整地している裏の駐車場からも出てきています。少々の大きさでは驚かないですが、人の背丈以上のものが出てきたので、写真をとりました。奥のトラックと比べてみればよくわかります。

*次の朝、近くで撮ってみました。大きなお相撲さんのようでした。




2024年2月16日金曜日

六道輪廻

  死後、生まれ変わる6つの世界を六道といい、天上、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄である。死んでは生まれ変わるのを永遠に続くのが輪廻。

 子どものころは、六道輪廻は知らいけど、日常のことばに使われていました。

 修羅は、事故現場や泣き叫ぶ場面など修羅場といいます。テレビのニュースやドラマで流れてきます。以前は、テレビのニュースを見ながらご飯を食べてましたが、自分に修羅の心があるのに気がつき、修羅の心がエスカレートしないように、ニュースは見ないようにしています。

 餓鬼は、いつもお腹が空いて食べたがる子どもをガキといいますが、がつがつして満たされないようなことです。待てずに、立って食べたり、手づかみで食べたら、怒られました。餓鬼の心をたしなめられたのでしょう。

 畜生は、犬とか猫のことを言っていました。ペットではなく。相手をののしって「こんちくしょう」とか言います。

 日常に六道を使って教育していたのですね。仏教徒でなければ、気にする必要は無いでしょうが・・・


2024年2月13日火曜日

『老子』四章「和光同塵」

 池田知久は、「和光同塵」を「己の知恵の光を和らげて、塵のような渾沌たる世界と一つになった」と訳し、「自分の能力を包み隠して俗世間と交わる」という意味の処世訓として有名である。しかし、この理解は「和光同塵」の正しい意味を把えそこねた通俗的な解釈であるという。(池田知久『老子』講談社学術文庫

 「塵」を一般的には俗塵の意味にとるが、池田は「道」の渾沌の意味にとるところが異なる。出典の四章では「挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵」となっていて、「解其紛」と対になっている。「紛に解けこむ」「塵と一体になる」=紛・塵に解けこむ・一体になる、となり、この紛・塵が「道」の渾沌を表していることをいう。

 そもそも「包み隠して俗世間と交わる」とは、包み隠すことは人為であるから『老子』は言わない。やはり、小賢しい知恵を捨てて(人為を捨てて)、道と一体になる、が本意である。


 






2024年2月2日金曜日

嚢胞症その3

 

 上の写真が、12月初め。下の写真が、2月初め。2か月経過です。写真の撮り方が下手で申し訳ないですが、だいぶ良くなってきました。2か月前は、真皮層まで到達して、割れると痛いような状況でしたが、今は表皮層だけのようで、割れるようなことはありません。
 あと一か月で完治するのではないでしょうか。

 
 前に紹介した、藤平健先生の『百味箪笥』に、藤平先生が、機能性ディスペプシアに罹患したとき、自分で、湯液を処方したが、癒えず、友人の小倉重成先生から、縄跳びすると良いと教わって、せっせと縄跳びしたら完治したという話が載っていました。

 くすりでもない、はりきゅうでもない、何でもないというような治療が、あちこちにあるもんですねえ。