2015年8月17日月曜日

鍼灸師は聖人たれ!

 『素問』上古天真論篇を読み直すと、この篇は養生篇ではなく、理想的な鍼灸師としての聖人の道を述べたものだとわかった。聖人は、恬憺虚無の人であり、天寿を全うした人であり、そして鍼灸師なのです。恬憺虚無が共通項で、天寿を全うする極意であり、治療の極意でもあるのです。

 治療に当たっては、虚心になり、雑念をはらうことであれば、先輩鍼灸師、だれでもがおっしゃるところで、毎日実行していることでしょう。ある程度の人ができること。

 そうではなくて、恬憺虚無になって、天寿を全うすることが本来で、鍼灸治療をするのが、その延長線上の余技である、ということが大事なところですから、どれだけ理想的な治療したとしても、理想の鍼灸師ではないわけです。なにしろ、普段から恬憺虚無であることが大事なことなのです。
 
 恬憺とはこころ静かで無欲なこと。虚無とは無為とおなじで、分別の判断をしりぞけること。『針道秘訣集』では、三毒(怒り、むさぼり、愚か)をしりぞけて、こころが清浄になること。こんな風に書いても、実際にはなかなか実行できないのですから、恬憺虚無は一生修行しなければならないのです。このことを、『針道秘訣集』では、「よく心がけ工夫を成すことは、心持ちで一番大事なところである」と言っています。

 鍛錬、修練を続けることを工夫といいます。治療中だけ三毒が無ければ良いのではなく、行住坐臥、いつでもどこでも、死ぬまで続けることが必要なのです。

 最近、電車が遅れることがしばしばあり、イラっとしますが、そのときも反省。人にいやなことを言われて、いやな気がしますが、反省。調子にのって食べ過ぎて、反省。寝過ぎて、反省。反省ばかりで、なかなかこころ静かを達成できませんが、すこしずつ進歩していると思っています。

 いずれにしても、恬憺虚無になって天寿を全うし、恬憺虚無になって治療の極意を得る、これが鍼灸の本道なのだと『素問』上古天真論が述べているのでした。


 


普段、めちゃくちゃな生活をしていても、理想的な鍼灸師となる。毎日浴びるように酒をのみ、不健康な生活をしていても、治療の場では無為であればいいのだろうか。
 
 聖人で大事なのは天寿を全うすることである。100歳まで生きることである。上古天真論篇は、無為自然になり、道と一体になれば、自然に天寿を全うできるという。

2015年8月10日月曜日

教員セミナー

 8月8日・9日、北里研究所東洋医学研究所主催の「教員のためのセミナー」が無事おわりました。今年は第10回。全回で講師をやりました。今回は、「内経聖人考」を発表しました。昨年の内経医学会の正月の発表を再考したものです。

 正月の発表では、『内経』に36見する聖人を、①治療家、②過去の偉大な政治家、③優れた養生家、と分類しました。

 その後、『呂氏春秋』を読んでみると、その道家に属する6篇にも聖人が10見していました。

 その聖人は、優れた養生家であり、その余技として政治家になる人でした。政治家を目指して政治家になるのではなく、まず優れた養生家になって、そのうえで政治家になるべきだと言っています。

 この流れからすると、『内経』の聖人は、優れた養生家であるが、実は治療家でもあるのです。治療家が目指すのは、治療家ではなくて、優れた養生家である、というところに奥深さがあります。それを一言でいえば「聖人」なのです。

 したがって、昨年の正月での分類は、①治療家、②過去の偉大な政治家、③優れた養生家、でしたが、改めまして、①優れた養生家(兼治療家)、②過去の偉大な政治家、ということになります。

 ①の聖人は、到達可能な人物で、修行に取り組むための理想像です。
 ②の聖人は、過去の優れた政治家で、完成された理想的人物で、到達は不可能です。

 聖人といえば、みな、到達不可能の空想の人物として、自分とは無関係の人と思われ、修行を放擲してしまいます。しかし、『内経』の聖人は、毎日の修行によって、到達可能なる人です。ここが大事なところです。毎日の修行とは、たとえば、『針道秘訣集』がいうところの三つの清浄の工夫ですし、沢庵の『不動智神妙録』に書いてあることを、理解実践することなのです。

 かくして、江戸時代の至言と、『黄帝内経』が一本につながったわけです。あな、めでたし。