2014年5月6日火曜日

志を鍼に在らしむ

 「志を鍼に在らしむ」とは、『霊枢』終始篇のことばで、原文では「令志在鍼」である。鍼治療の極意を述べている。志とは、こころ。神、精神、気持ち、意識などと、ほぼ同じい。

 これを「精神を鍼先に集中する」と読むか、「精神を鍼先に移す」と読むのでは、だいぶ違う。

 「精神を鍼先に集中する」のは、精神集中(一神)した本人の延長線上に鍼先があり、いかにも理想的だが、本人には一神が存在していて、力が抜けていない。鍼の存在を意識しながら、鍼を使っている。もちろん、この域に達するのも簡単ではない。

 「精神を鍼先に移す」というのは、精神を集中させ(一神)、それ(一神)を鍼先に移すこと。一神を鍼先に移せば、本人は無神になる。無神は、無我にも通じ、無為にも通じる。無我になって、鍼を運用するとは、鍼を持っているが、鍼を持っていない、鍼をわすれていること。こうなると、究極の鍼師だな。

 無神の状態は、スポーツ選手によく見られる。稽古場では横綱くらいに強いが、本場所となると勝とうという意識がはたらいて平幕どまり。そういう力士がいるらしい。白鵬は、純粋無垢、無意識に近いようである。ただ、稀勢の里の時だけ、稀勢の里に精神が集中してしまって、時に負ける。

 『霊枢』終始篇に、このようなことが書かれているらしい。(自前の解釈だけど)

 

 

1 件のコメント:

  1. 追加:
     『素問』宝命全形論篇に「手は虎を握るがごとし」とあり、これは終始篇の無神とおなじことを言っている。ムツゴロウさんが、豹とじゃれあうところを、テレビで見たことがあるが、きっと無神でないとできないだろう。

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