2015年6月24日水曜日

6月28日オリエント研修

 6月28日は、オリエント研修で、大阪へ。受講生は、学生さんと常連さんと、半々でしょうか。一番難しいシチュエーションです。常連さんには、話がかぶらないようにしないといけないし、学生さんには難しくしてはいけないし。ようするに、ネタ切れになるのですが、ネタは自然にわいてくるので、何とかなっています。

 今回のテーマは腹診です。腹診は、何十年もやっていて、いまさらの話題がないと思いきや、前に紹介した、森共之先生の「相い忘れ」というところを、今回は取り上げたいと思います。

 配付資料は無しです。去年か、一昨年、配付資料を造ったら、主催者に怒られました。パワーポイントもありません。ホワイトボードとベットのみの、シンプルなセッテングです。ちょっと、落語に近いでしょうか。

 午前2時間、午後2時間とのことですが(たぶん)、去年の夏は、午前3時間、午後3時間でしたから、肉体的には負担が少ないかと。短いから楽ちんということはありません。どんなに短くても、たいへんなんですから。

 だいたいは2週間以上も前から、話す内容をメモ書きしておきます。原稿的には、準備万端なのですが、原稿を読まないので、準備した内容はほとんど使わずに、その場のアドリブになってしまてます。会場の雰囲気と、第一声で、方向性が決まっているようです。

 「相い忘れ」については、次回、報告いたします。


 


2015年6月22日月曜日

治療その3

 自療とは、自分で治療することである。

 自分で治療するとは、治療行為を、自分にほどこすことです。たとえば、自鍼、自灸、ひとりあん摩など。薬局で市販薬を買って、早めに治しているのもでしょう。かぜを引きそうだから葛根湯。自分に合っているクスリで早めに治すことができるならば、漢方薬でなくても自療といえます。ざっといえば、軽度で、早期ならば、自療である程度対処できそうです。そうでなくても、湯治に行ったり、断食をして、重い病気を治す人もいますが。

 また、ただ、毎日の生活を見直し、自然な生活に戻ることも、自療といえるでしょう。食べ過ぎたり、飲み過ぎたり、夜遅くまで起きていたり、そういう不自然な生活を改め、自然に沿った生活をすることも、自療といえるでしょう。食べ過ぎ、飲み過ぎ、遊び過ぎ、生活をあらためるだけで治る病気もあるのではないでしょうか。

 自分で治療するといえば、範囲が狭そうですが、ひろく考えるとなかなか奥深いところがありそうです。さて、自分で治療するといっても、大いなる存在を見逃してはならないかと。神さま、仏さまのお力もあるだろうから、自療に関しては、信心も大きな役割をすると考えらます。

 大いなる存在としては、「自然の力」を忘れてはなりません。これは、老子が提案したもので、自然治癒、自然良能などといわれる「自然」です。わざとらしいことをしない、小賢しいことをしないで、自然の力に委ねて自療すれば、自然の力が荷担してくれ、自然治癒力が増してきます。

 湯治は、小賢しいことを考えずに行えば、自然治癒が増すけど、小賢しいことを考えてしまえば、不自然となり、返って良くないかもしれない。食事療法も、小賢しいことを考えなければ、自然治癒力も高まるだろうが、小賢しいことを考えるならば、返って良くないかも知れない。

 要は、自療といっても、自分勝手に行うのではなくて、自然の摂理に法ることが大切で、その場合は、思いこみや、固定概念、社会の常識、流行、うわさなどが障害になり、医学的にこうだ、あれがいいらしい、みんなそうしている、というのも妨げになりそうです。そうではなくて、小賢しいことを考えずに、ごく自然に、自療をおこなうのが望ましいと考えています。

2015年6月20日土曜日

治療その2

 矢野忠先生の最近のレポートによれば、鍼灸の受療率は低下しているそうです。学校がふえて、生徒がふえて、資格所有者がふえているのに、世間のニーズは落ちているようです。

 単純にいえば、鍼灸は世間に期待されていないのだとおもいます。それは鍼灸のせいではなく、鍼灸師の責任です。

 ラーメン業界は、作り手の力で、期待される業界になりました。かつては、ほうれんそう、なると、シナチクをトッピングして、ほそぼそと生きつないでいました。今から40年ほど前の話です。この40年間で、変貌をとげました。ラーメンが変貌したばかりではなく、世間の評価も大いに高まりました。それは、作り手が、おいしさをもとめて工夫し、店舗をきれいにし、魅力的な業種に仕立てたからです。

 美容業界もがんばっています。美容師は、いまや先生とよばれるほどに、世間の評価も高まっています。むかしは、パーマ屋さんといって、パーマをかけるでしたが、現在は、女性の美を担う大切な仕事になりましたから、先生とよばれて当然かもしれません。おなじく、美を追究し、店舗をきれいにし、魅力的な業種に仕立て上げたゆえです。

 ところが、鍼灸業界は、旧態然として、目がさめるようなことを何もしていませんから、閉塞感が漂い、それが社会の興味を惹起できない状態にいます。

 なにが旧態然かといえば、専門用語です。日本語化されていないので、世間にアピールできないところが壁になっていると思います。ここで取り上げた治療ということばも、自分たちの目線で、独善的な思いこみで使っています。もうすこし、患者さん目線で、わかりやすく説明し、理解して貰わない、鍼灸の普及にはならないし、世間のニーズも高まらないとおもいます。

 きのうも、臨床実習で、「膀胱経が~~」と生徒にいったら、患者さんに「私、膀胱が悪いんですか?」と質問されました。誤解しやすい、わかりにくい、こういう状況は、早く解消したいところです。

 以上のような意味で、治療を自療と他療に分けて、もともと鍼灸がもっていた自療という治療法を取り戻さねばと思います。そのうえで社会にアピールし、その延長線上に養生をすえるならば、鍼灸医学の役割はとても大きなものではないでしょうか。

 現代医学に歩調を合わせながらも、同時並行的に独自性を確立する活動をしなければ、鍼灸はおいおい消滅するような気がします。

2015年6月15日月曜日

治療ということば

 治療ということばは、自療と他療に分けることができる。
 他療とは、他人による治療ということで、私たちが治療といっている行為である。
 自療とは、自分による治療ということで、たとえば自宅施灸(これを自灸という)はその典型で、湯治、食治なども自療に属す。江戸時代の矢野白成先生は、患者さんに自分で鍼治療するように進めていて、これは自鍼といえる。自療には養生も含まれる。

 つまり、昔は、自療の余地がたくさんあったのを、現代の医療は自療を奪って、他療だけにしてしまったのである。鍼灸といえども、例外ではなく、同罪である。自分も、同罪である。

 現在は、マッサージは他療であるが、むかしは白隠禅師が提唱したひとりあん摩のように、自療の部分もあったのである。いつのまにか、他療だけになってしまって、他療なしではマッサージはできないと固定されてしまった。調子が悪ければ病院、なんでもかんでも病院というのは、その延長線上にある。

 誰かにやってもらう。食事も誰かに作ってもらう。何でも誰かにやってもらう。これは、現代日本の大きな風潮であるから、治療を誰かに委ねるという傾向はどんどん進むでしょう。これは、きっと、頭のいい人が、産業を作り出すために仕組んだもので、大衆はまんまとわなにはまったのである。誰かにやってもらえば、お金がかかる。お金を吸い上げるシステムを、頭のいい人が造ったのだとおもう。

 しかし、人の健康を、商売のタネにしてもらっては、困る。自分の健康は、自分で確保する、そういう風に意識改革する運動をはじめませんか、鍼灸師のみなさん。

 本来の姿を失い、健康産業に堕した鍼灸を憂う。
 
 自分の健康は自分で確保する(つまり養生ですが)、そのコツが『素問』上古天真論篇に書いてあります。自療こそが、本当の治療で、本人を解放し、自由にする最善のものです。みなさんも、自療について考えてみてはいかがでしょうか。
 
 


2015年6月1日月曜日

5月31日丹塾古典部

 5月31日の丹塾古典部は、午前は後藤艮山の「師説筆記」、午後は「平人・病人」を読みました。参加されなかった人のために、報告しましょう。

 というのは、4月に気がついたのです。発見したのです。上古天真論は、養生を書い「てあるのですが、患者さん向けではなく、治療家むけに書いてあるのだ、と。「そーだったのか。」

 このことがわかって、とてもすがすがしくなりました。やっと、今まで学んできたことがつながりました。夢分流も、後藤流も、宮脇流も。そして養生の位置づけも。というわけで、自分の中では、今まで最も納得した丹塾古典部ではないかと思っています。何かの都合があって参加できなかった人は残念でした。このブログで、そのさわりを伝えましょう。

 なぜわかったかというと、4月は『呂氏春秋』を読んでいたからです。上古天真論篇をよむ迷いが消えました。たとえば先己篇に、湯王が伊尹に天下を取る方法を質問し、伊尹は「まず自分自身をお治めになることです」(およそ事の本は、必ず先ず身を治めよ。)と答えています。政治にしろ、治療家にしろ、まずは自分自身を治めるべきということで、そのためには養生をして、心を治め、体を治めるべきだ。というようなことが書いてあります。その方法が、上古天真論篇に書いてあるわけです。

 まえに、森共之先生が、脈診と腹診のコツが晩年にわかったと書きました。「医者の手指と病人の皮膚と、相忘れて、しかるのち吉凶死生を診得すべし」と。共之先生に及ばないながら、うれしいものです。かくして、「恬憺虚無なれば、真気これに従う」も、ようやっと合点しました。