2014年6月16日月曜日

仁術の仁とは

 無事、講演会を終えることができ、ほっとしています。

 講演は向きではないし、好きでもないのですが、頼まれれば「やる」を基本にしています。

 それなのに、講演のメモを書き入れた「温灸読本」を忘れてしまって、万事休す。孔子先生ではないけど、「何の陋か、これ有らん」(どんな困難も、何の問題があろうか)というように、マイナスに考えないで、頭の中のまばらな記憶を寄せ集め、組み立てて、なんとか講演を終えました。

 仁術の仁とは、元々は「おもいやり・慈しみ」という意味があり、これを孔子先生が、自身の哲学の根本に据えて、忠恕、孝悌、礼儀などと、君子が修徳すべき事柄に広げたものが「孔子の仁」というもの。さらに朱子は、「孔子の仁」に仏教の哲学・道家の思想も組み入れて、「朱子の仁」を形成した。

 「医は仁術」、誰が始めに言ったのかわかりませんが、「孔子の仁」を指して言ったのでしょう。しかし、原初の「おもいやり・慈しみ」でも、十分「医は仁術」として通用すると思います。

 つまり、「医は、おもいやり・慈しみの、技術である」ということです。さて、その「おもいやり・慈しみ」は、どこから生まれ出てくるのでしょうか? 生まれつきの性格なのか、道徳的教育でやしなうものなのか。

 中村元先生の『仏教の真髄を語る』に、その解答がありました。「つまり自他の対立を超えるから、慈悲が具現されるのであります」と。「自他の対立を超える」とは、頭の中で分別をしないこと、だと思います。
 
 

 
 お祖母ちゃんが、孫の研ちゃんに、「肩もんで」と頼んで、研ちゃんが「いいよ」ともんでくれたけど、べつの日に「肩もんで」と頼んだら、ゲームに熱中していて、「いやだ」と断ったとします。研ちゃんは元々優しい子なので、慈悲のこころを持っていたとしても、研ちゃんがゲームをしていて中断したくないという分別が生まれたので、「いやだ」と断ったことになります。そういう意味で、分別しないところに、慈悲が生まれるというのでしょう。

 頭の中で分別をしないとは、無心、あるいは無為と言え、『素問』の中の「恬憺虚無」と同じだとおもいます。治療に際して、あれこれ考えないこと。ああしよう、こうしよう、こうすれば喜ばれる、いやがられないかな、治るか、治らないか、治らなかったらどうしよう。こういう風に、あれこれ分別しないこと、考えないこと。

 「医は仁術」、その根本がすでに『素問』に明記されていたのです。何十年も『素問』を見ていながら、なにもわかっていない愚かさには、われながらあきれています。それでも、遅ればせながら、恬憺虚無の真髄がわかって、すっきりしています。

 
 無分別であるがゆえに、慈悲のこころが生まれ、その慈悲のこころを持って手当し、その手当の延長線上に鍼灸治療が存在する、という風に考えてみました。

 医は仁術、とても深奥なることばのようです。


 
 
 
 









 

 

2014年6月5日木曜日

儒教の原型

ひろさちや・山下龍二『ひろやちやが聞く 論語』(すずき出版)の、ひろさちやの「まえがき」が奮っている。

 
 わたしたちは、この儒教の原型を知る必要がある。その必要性を、わたしは声を大にして叫んでおきたい。
 なぜなら、わたしたちが儒教の原型を知るとき、日本の「儒教」がいかにインチキであるかがよくわかるからだ。そして、日本の「儒教」のインチキさが暴露されると、わたしたち日本の庶民が、いかに無責任な政治家どもに誑(たぶら)かされてきたかが明白に見えてくる。その結果、世紀末に生きるわたしたち日本の庶民が本当の幸福を得るには、「どのように思考すればよいか」「どのように実践すればよいか」がわかってくる。・・・・

日本仏教については、本文で、

(日本には)お釈迦様の仏教もなければ、お釈迦様後の仏教もありません。・・・中国の仏教もじつは、日本に入ってきていない。・・・日本の仏教には、五、六人の天才がいて、その中でも空海と道元と親鸞の三人はまた飛び抜けて大天才なわけです。

と、日本仏教は、日本化された仏教であって、仏教の本当の教えは、日本の仏教では学べないという。仏教だと思っていたのが、仏教じゃない。ありがたいお経は、ありがたくない。

 もしかしたら、鍼灸も同じではないか。日本の鍼灸は、自国内で生きて行くだけなら、いまのままで良いのだが、鍼灸の本当の教えを知るためには、鍼灸の原型を明らかにしなければならないだろう。馬王堆・張家山の出土文書は、その原型をしる手がかりとして、最良無二の宝物であると確信する次第。


 「鍼灸の原型」、たのしみになってきました。 「原型」がわかれば、「どのように思考すればよいか」「どのように実践すればよいか」が明白になり、鍼灸師が幸福になる、はずである。


2014年6月2日月曜日

医は仁術

 東京科学博物館で行われている「医は仁術」展も、あと2週間で閉幕する。さて、「仁術」とは、どういう意味なのか。

 「仁」を、人間形成の最重要ポイントとして取り上げたのは、孔子である。孔子の言行録である『論語』に、「仁」の用例がたくさんでてくる。したがって、「仁術」をしりたければ、『論語』をよむのが一番である。。

 驚いたことに、岩波文庫版の『論語』は、昭和63年の初版から、累計134万部が売れたそうである。初版が34刷、再版が24刷を重ねているから、単純に計算しても1刷で2万部。岩波文庫では、第4位の売り上げ数だそう。日本人は、『論語』が好きなんです。

 ところで、「医は仁術」というところの、現代の「医」の人は『論語』を読んでいるのだろうか。江戸時代ならば、東洋医学を指して「医は仁術」と言ったのだろうから、鍼灸家は「医は仁術」を重く受け止めなければならない。

 『論語』をよまなくても、仁術についてのレクチャーくらいは、どこかで為されなければならない。仁術を遂行するかどうかは、個人が選択すれば良いことだが、教養として、最低限の知識を共有しておきたいところだ。

 たとえば、伊藤仁齋の『論語』研究は、弟子の後藤艮山の灸術にも影響が及び、艮山の弟子の香川修庵も、仁術なるものを追求し、ついには灸術を深め、香川流灸法を確立させたように、仁術と灸法はとても近しい関係にある。

 こうした例をふまえても、 仁術をはっきりさせなければ、私たちの鍼灸は根無し草になるのではないかと、やや不安であります。

 
 6月14日(土)18時~21時、灸法臨床研究会の主催で、講演の機会を得たので、「仁術」のはなしを少しばかりする予定。講演の詳細は、「三景」のHPでご確認ください。