2020年10月31日土曜日

楽(その2)

 前に、『論語』の楽は、天の神を意識して(祈って)歩むことらしい、と書きましたが、『仏教思想のゼロポイント』を再び読んでみると、苦を滅尽したことが楽である、と書いてありました。苦が無いことが楽であるとは、汚れている部屋を片付ければきれいになることに等しく、汚れている部屋のとなりにきれいな部屋があることではない、のです。苦楽を2つの部屋(両極)だと思い込み、勘違いしてました~

 たとえば、無と有も、2つの部屋とばっかり思ってましたが、『老子』は、無から有が生まれると言ってますから、1つの部屋の中の無と有を言っていたのです。

 もういっかい、頭の中、整理しなおしだ~

*『仏教思想のゼロポイント』1回目にマーカーしたところ(合点ポイント)と、今回(2回目)の合点ポイントが、少しずれてました。頭わるいというか、なんというか。

 


2020年10月28日水曜日

こする・みがく

 トン毛の歯ブラシをつかうと、汚れがよく落ちる。ナイロンの歯ブラシとだいぶ違う。ヤシの繊維のたわしと、ナイロンのたわしの違いのよう。

 米はとぐといい洗うといわないのは、洗うだけでは米粒のすき間に入っているぬかを落としきれないからで、とがなければならないのです。

 汗をぬぐうのと汗をふくのは別物で、表面をさっとふいただけでは風邪を引きやすく、汗孔にたまっているのまでぬぐい取らないとならないのです。

 トン毛の歯ブラシは、歯をみがいて、歯の汚れをぬぐい取っているようで、ナイロンの歯ブラシは、こすっていただけかも。

 心の垢は、さっとなでたごときではとり除けません。こすりとって、ぬぐいとって、すっきりしましょう。

2020年10月19日月曜日

宮城 銘菓ばなし

  父は、お茶が好きな人で、高校の学校の帰りに、塩竃の丹六園の芽茶を買ってくるようにたのまれました。お茶の淹れ方は、急須から湯飲みに、湯飲みから急須にと、何遍か往復するので、濃いのが好きだったと思っていましたが、実はぼくも同じような淹れ方をしているのでわかるのですが(真似しているわけではなく)、濃くするのでもなく、ちょうど良い濃さを探しているのです。

 その丹六園は、お茶は売っていないのですが、茶器と銘菓「しほがま」を売っています。三陸津波のときは、店の中まで浸かったそうです。他のメーカーの「しほがま」もあるのですが、本家の足元にも及びません。

 銘菓は松島に「こうれん」があります。見た目は妖怪「いったんもめん」のようで、風雅のきわみのような、ほんのり甘いせんべいです。似たようなお菓子に遭遇したことがありません。

 昔の仙台みやげといえば「白松が最中」か「三色最中」ですが、最中好きではないので、どうなっているやら。ビーズ玉のような「九重」も有名でした。お湯をそそぐと溶けて、ほんのり甘い飲み物になります。仙台みやげといえば「萩の月」ですが、昔はなかった新しいお菓子です。まあ、仙台牛タンも昔はなかった。

トン毛の歯ブラシ

  今使っている歯ブラシが古くなったので、新しいのを。薬局で探したら、とん(豚)毛の歯ブラシが売っていました。柄は無骨にストレート。ライオンの作。ニーズがあるんだねえ。

 きっと祖父が使っていただろうと思い、買いました。ブラシ面積は、今の5割増し。口の中が一杯になります。剛毛で、歯茎に容赦なく当たります。

 少し前まで、親父が、尺八を吹いていたことや、書が上手だったことを思い出していたので、一気に祖父ブランドの歯ブラシに手を出してしまったのでした。


2020年10月15日木曜日

ヘレン・メリル

 「ヘレン・メリルの出世作とよべるこの一枚は、編曲と指揮にクインシー・ジョーンズ、メインソロイストにクリフォード・ブラウンを配した、稀にみるコレクターズ・アイテムといえるものである」(1971年記 由井正一)

 20年以上も前に買ったCDですが、解説を読むのは、はじめて。そうだったのか、稀なるものを、聞いていたんだ。現在、治療室で、流れています。



2020年10月13日火曜日

九里香

  キンモクセイは、中国では、九里香というらしい。一里が何メートルかわかりませんが、「こんなところまで香っているよ」、よほど鼻が敏感な人がつけた名前でしょう。

 春のジンチョウゲは、七里香というらしい。九里には負けているが、香りの拡がりの違いがわかるのですから、なみの人ではありません。

 ①すぐれた嗅覚

 ②精神が研ぎ澄まされている

という意味で、なみの人ではありません。

 女子ゴルフの渋野さん。今年は、今のところ不調。技術はあるのですから、問題は②の精神にあるのでしょう。全米女子オープンで、3日目は最下位でした。②の維持は、さらにたいへんだったでしょうね。

 そういえば、昔の田舎は、田舎の臭いがしていました。①でもなく、②でもなく、強制的な臭いであります。懐かしいけど、嗅ぎたくはないであります。



2020年10月12日月曜日

知る・好む・楽しみ

「これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。

これは、『論語』雍也篇の文章。最後の「楽しむ」というのが難解。この「楽しむ」が現代人の「楽しむ」と同義ならば、現代は孔子の理想どおりということになる。

 始めは、好む・好まない、を乗り越えた境地が楽しむだと思っていました。しかし、『論語』の中では、孔子は、食べ物の好き嫌いをするし、毎日の生活にこだわりがおおくて、好む・好まないを乗り越えていないのです。

 貧窮生活をしている顏回を、孔子は「楽しみは其の中に在り」と言って称えています。其の中って、どの中なんでしょう。

 近頃、俗世間のことは、孔子の視野になくて、孔子はいつも天の神を意識して、天の神を判断基準にして生きていた、と考えるようになりました。

 つまり、「天の神の下に生きている」ことが「其の中」で、「天の神の下に生きている」ことが「楽しみ」、と考えるようになりました。

 俗世間から意識をそらし、天の神を意識して(祈って)歩むのが「楽しい」のである。この視点で『論語』を読むと、なるほどと合点が行くのであります。

 孔子が重い病気になったとき、弟子が「祈りましょうか」「古典に天地の神々に祈ると書いてありますし」と言ったとき、「私はずっと祈っていたよ」と答えたところ(述而篇)が、その良い例。ずっと祈っていたのです。

2020年10月7日水曜日

先にイメージ

  また登場、テニスのコーチ。

 ボールを打ち返す前に、どのように返すかイメージしなさいと語りました。

 ただ、ぼんやり返すのではなく、相手が困るようなコース、強さ、速さ、球筋を、先にイメージしておかないと試合には勝てないよ、って。

 この話は、すぐ納得した。(すぐ出来るわけではない。)

 階段修練に行く時は、農家の庭先を通る。庭木から香りがでているとイメージして、香りを嗅ぐ気になっていると、たくさんの香りを嗅ぐことができる。イメージしていないと、嗅ぐ気だけでは、嗅げないこともある。考え事していたら、まるっきりわからない。

 通年だと、サクラ。最近は、キンモクセイ。今日は、なぜかヒノキ。

 香りにも強弱があり、強いときは、庭木が気分がいいか、体調が良いときだと思われます。

 ちかごろ、香りのコツを体得してから、階段修練に行く時、周囲の空気が、庭木のかおりで充満しているのがわかるようになりました。むんむん。

 ということは、鍼を刺すときに、補法するのか、写法するのか、イメージしておかなければならないのであります。(こんなはなし、又聞きだけど、積聚会の小林先生がしていたような・・・)

2020年10月6日火曜日

階段の楽しみ

  1月に痔の手術をして、そのリハビリとして、近くの70段の階段をのぼり始め、まるまる8ヶ月経過しました。最初は、少なめの段数。後に、1回700段。さらに裸足で700段と進化しました。

 現在は、つま先で小走りで上ることにしています。なぜ、そうしたかといえば、『望星』6月号(2013)に、福岡大学の田中宏暁という先生がが提唱する、フォアフット走法のスロージョギング健康法という記事を読んだからです。設楽くんが、フォアフット走法でマラソン日本新記録を出したのが、2017年ですから、その4年前にそういう記事を書いていた先生がいたのです。

 物持ちが良いというか、なんで昔の雑誌が残っていて、なんでパラパラとめくったのか。そして、どうしてその記事に目が留まったのか。不思議としかいいようがありません。

「興味深いのは、靴を履いて走るとどのグループでも踵着地が増え、裸足で走るとフォアフット着地が多くなるというものです」

「膝を痛める、足を故障したりケガをする、これはジョギング自体に原因があるのではなく、靴を履いた踵着地で走ることが影響していると考えたほうがよいでしょう」

 このような文章を読んだので、裸足で、フォアフット走法で、階段を上っているのです。

 いろいろ試していると、階段は、まことに楽しい。


2020年10月2日金曜日

人にして信無くんば

 『論語』の為政篇に「人にして信無くんば、その可を知らず」という文章があります。いままでは、人間関係で信用が確立されていない奴は人間としての可能性は無い、という意味だと思っていたのですが、孔子が、天を祀り、祖霊を祭るすがたに思いを致せば、天・祖霊に信が確立してのち、その余沢で人間関係の信がつくられる、と考え直しました。

 なので、一生懸命、人間関係を取り繕うとしたってダメなのです。天・祖霊に完全に任せきる(信)ことが先なのです。礼どおりに天を祀り、礼どおりに祖霊を祭ることが、完全に任せきったという証になるわけです。

『論語』から、そのお姿が見えないので、人間関係の信と思うのです。

 完全に任せきることが、つまり孔子の無心なのです。完全に任せきる相手は、人間ではなくて、天・祖霊なのです。

 天も人格を持っているし、祖霊も人格を持っているから、老子は完全に任せられなくて、さらに上位の存在である道を設定しました。