2020年9月29日火曜日

それぞれの無心

  無心は、いろいろな意味があって、次のように整理することができる。

  孔子は、主宰者「天」に対するために無心を言う。

  老子は、真宰者「道」に対するために無心を言う。

 治療効果に「天」あるいは「道」の力を期待するならば、それぞれの無心が求められる。

  技術者は、技術を誤らないために無心を言う。

 鍼師は、技術を誤らないための無心が求められる。

  信(何かの力のままにしたがう。うたがいなく)も、無心ともいえる。

 先人の知恵、師匠の教えを、うたがいもなく、ゆだねることができる者は、すぐれた鍼師だと思う。

  釈尊は、解脱のために無心を言う。

 出家しないとわからない無心です。よく分かりません。

 個人的には、①技術のための無心+②天・道の無心=鍼師の資質、と思っています。

 ②は、委順(自然の成り行きに任せる)、(自分を出さないで)信じて任せきる、とおき換えることができるかも知れません。

 
 



 

 


2020年9月25日金曜日

お相撲 戦国時代

  農大出身の正代が調子よく、数場所前から、優勝争いに加わっている。なぜ調子よいかといえば、横綱、大関が不在のようなので、成績が上がって、調子に乗っているからです。

 現在、平幕相手に2敗しているが、このあと、横綱に2敗、大関に2敗したとすると、9勝6敗だから、優勝争いに加われるわけがない。

 腰が高くて、反っくり返ってぶつかるようなあんな相撲で何で勝てるのかわからない、と栃の和歌(なんとか親方)が言っていたけど、優勝争いに加わって調子に乗っているから、です。本当に強い相手には通用しないでしょう。

 両横綱不在の混戦状態は、戦国時代のようで面白い。横綱、大関をむりやりそろえて、体裁をつくる必要はないとおもう。毎場所、優勝力士が代わるのも、あたらしい相撲時代到来と思えば、とても面白い。

 平幕でも優勝できるかもしれないので、俄然、活気立つに違いない。よしおれも、って。



ツケ 通帳

 ツケとは、その場で支払わないで店の帳簿につけさせておき、あとでまとめて支払うこと。また、その支払い方法。「ツケで飲む」「ツケがきく」

 小学生のころ、住んでいる集落には、米屋、雑貨店、食料品店、肉屋がありました。他の店は、現金払いでしたが、食料品店だけがツケがきいていました。

(よく考えたら、米屋、雑貨店、食料品店、肉屋で残っているのは米屋で、米は売らずに燃料店をやってます。)

 しかし、店の帳簿ではなく、持参した通帳に記録してもらいました。買い物を頼まれれば、財布がわりに通帳を持たされたのでした。おそらく、月末に精算していたのだと思います。もっと古くには年末の精算だったかもしれません。

 こういう風習がいつまで続いたのかはっきりしませんが、中学生ころには無くなっていたかもしれません。

 米を買うにも、米穀手帳がありましたが、いつのまににか消滅してしまいました。手帳つながりでいえば、年金手帳も、無くなるのではないでしょうか。そういえば、銀行の通帳も有料化がはじまりましたし。

 ツケは、ほどなくすると死語になりかも。病気になると「長年のツケが廻ってきたんですよ」といって分かってもらえるのも、ほどなくか。

2020年9月18日金曜日

ボールの軌道で待っているだけ

  この前、テニスのコーチが、

「ぼくらは、ボールの軌道にラケットを用意して待っているだけ。余裕があればラケットを振るよ」

「あなたがたは、ラケット振ろうと思っているから、うまく行かないのです」

 こういうのも、無心というのでしょう。

 真理なることばと思いました。「無射の射」の解答みたい。

 そのためにどれだけ速くラケットを準備できるか、余裕があったらどのように振るかなどの課題が出てくるそう。

 最も必要なことを、適確に行う。余計なことに腐心しない。

 なんだか鍼灸治療に似ているなあと。

 鍼灸治療に、最も必要なことって何だろう?

 入門の初日にたたき込まれたら、すぐ上手くなりそう。

 


2020年9月10日木曜日

鐘楼2題

 

 鐘楼をみると、鐘をつきたくなる。右は、群馬県の川場村の吉祥寺の鐘楼です。撞木がやけに太いので、写真にとりました。必要以上に太いのです。

 幸いに、1回100円だったので、2回ついてきました。つきたい煩悩がはれました。

 ついたという記憶では、兵庫県但馬の宗鏡寺。沢庵和尚出身の寺です。3度ほど行ってます。有料でしたが、その都度ついてきました。

 つき癖がついているのは、故郷の松島・瑞巌寺の除夜の鐘をついてからです。中学のころのはなしですが。うんと引いて、手をゆるめると、撞木の重さで、ゴーンとなります。


 次は、この前行った、京都の建仁寺の鐘楼。おどろいたのに、四方壁があって、唯一、撞木のところが窓になっているのです。こういう造形、さすが京都。にくらし。この鐘はつけないのですが、いつかは、ついてみたいです。

 つきたい煩悩は、消えては生まれ、きりがありません。