2016年12月30日金曜日

ピラカンサとむくどり

わが家の壁に這っているピラカンサ(3メートルくらいの高さがある)は、この時期に実をつけるが、どこから情報を得ているのか、ムクドリがやってきて、実を食べ尽くしていく。みごとに食べ尽くしていく。

 何羽か来ているから、リーダーが誘ってくるのだろうか。三々五々集まってくるのか。それとも、偵察隊が毎日みまわりして、そろそろだぞ~、とみんなに声かけしているのか。

 ムクドリは喜んでいるに違いない。腹いっぱい食べて、堪能しているかもしれない。そして、「旦那さん、ごちそうさま」って、感謝しているに違いない。お正月の前に、大吉ゲットでした。

2016年12月26日月曜日

温良恭倹譲

 京浜東北線の南浦和駅のホームから、敷地は200坪はあろうかと思われる、和風の立派な家が見える。庭には茶室と思われる小さな建物もある。よほどのお金持ちだったのでしょう。

 ところが、いつのまにか解体されて、今は更地になっている。きっと、マンションでも建つのでしょう。遺産相続のために売却されたのかも知れません。

 どういう理由が知りませんが、建って20年もしない立派な住宅が壊されるのは、実にもったいない。その住宅を壊して、マンションを建てれば、相当に儲かるのだから、安いものでしょうが、経済的な損得で、丹精こめて造ったものが壊されるのは、実にもったいない。

 子禽が質問するには「うちの先生(孔子)は、どこの国にいかれても、きっとそこの政治の相談をうけられる。それをお求めになったのでしょうか。それとも向こうから持ちかけられたのでしょうか」

 子貢がいうには「うちの先生の性格は、温良恭倹譲。なので、どこの国にいっても相談を受けられることになるのだ」

 温(おだやかさ)、 良(すなおさ)、 恭(うやうやしさ)、 倹(つつましやかさ)、 譲(ひかえめ)を持ち合わせていたという。それゆえに、いろいろ相談が持ち込まれていたらしい。

 この中の倹約は、老子も重視している。

 老子も、慈・倹・敢えて天下の先にならないの三つの宝を持っている。慈(いつくしみ)、倹(つつましやかさ)、敢えて天下の先にならない(沢庵によれば、謙ひかえめである。中国のふたりの哲人はとても良く似ている。

 ついこのあいだまでの日本に浸透していた「もったいない」の精神は、ふたりの倹約の精神の延長線上にあると思われる。

 食べ物を粗末にしない、修理して大切に使う、というように、日本の日常に遍満していた倹約の精神が、いつのまにか、損得、消費、使い捨てのほうが美徳とされ、倹約は悪徳のようになってしまっている。
 
 本当に日本人は変わったとおもう。

 養生は、倹約の精神の延長線上にあると思う。そうすると、養生の教育のまえに、倹約の精神の教育が先なのだなあ、と気がついた次第。



2016年12月19日月曜日

ランクル60(ロクマル)

 今日、家の近くで、赤のランクル60を見ました。それもマニュアルのようです。若い男性が運転していました。

 ランクルとは、トヨタが誇る大型のオフロード車で、60は今から30年程前に生産されていた型番である。いまだに根強い人気があるらしく、県内にも中古ランクル専門店があちこちにある。

 もし、次に買うのであれば、このランクル60にしようか。これまでは、軽トラが第1候補でしたが。

 クルマは、一般的には、速いとか、安いとか、便利とか、燃費がいいとかが、良い評価を得られるでしょう。けどランクル60は、遅くて、高くて、取り扱いが面倒で、きっと燃費も悪くて、一般的な評価の真反対に居る。それを好んで手に入れているのは、なかなかの硬派である。

 そう考えてみると、古典を読んでいるのは、なかなかの硬派といえよう。仲間が増えない理由はここにあるのかも知れない。 

2016年12月15日木曜日

さらに、一層。

 近所に、コーヒー豆を焙煎して売る店があるので、炒りたて、挽きたて、淹れたての、三たてコーヒーを、毎日飲んでいる。それで、十分満足していたのだが・・・

 数日前、京都の土居コーヒーというところの豆を、いただいた。おそろしいことに、豆の大きさがそろえてあり、見た目もつぶぞろいであった。十分に豆を吟味した気配がただよっている。

 飲んでみると、雑味がなく、三たてを超えている。胃に軽いし、爽やかだし。原材料の吟味につきるか。

 「しじみの貝がみんな同じ大きさで、つまり粒を揃えたところに老人の心がまえがある。金がないので、心で食わせる料理であった。近頃は、同じ茶をやっても、ただ贅沢ばかりで、こんなおもむきのあることをする主人はいなくなった。」

 『味覚極楽』の一節である。老人というのは、牛込早稲田に住んでいた赤沢閑甫という茶人で、茶席に出されたシジミ汁を、いたく感心したという内容である。

 豆のぎんみ、炒りのぎんみ、ひき方、淹れかた。かくして、さらに一層のコーヒーができあがるようである。

 淹れかたでは、最後の抽出液は捨てるというのは、よく知れたことだが、近頃では、最初の抽出液の一滴を捨てるそうである。かくして、雑味がないコーヒーが完成するんだとか。

 この研究熱心さが、日本人の特性でしょうか。

 

2016年12月12日月曜日

がんづぎ

 子どものころのお菓子といえば、がんづぎ(訛りをへらして「がんづき」とも)。二種類あって、むしパンの様なのと、ういろうの様なのと。記憶の中には、みそ味があったような。

 今でも売っているらしいので、伝統菓子として定着しているようです。

 上京して初めての洋菓子は、ヒロタのシュークリーム。地元には不二家があったけど、やはり東京の味のように思いました。昨日、地下鉄の駅で売っていたので、40年ぶりに食べました。

 仙台銘菓といえば、萩の月ですが、松島の銘菓といえば、松島こうれんです。1327年から作っているらしい。米粉を材料にした、ほのかに甘い煎餅です。

 京都には、遣唐使が将来したという、清浄歓喜団があります。日本最古のお菓子のようで、一個540円します。高いと言いますが、遣唐使が持ち込んだお菓子を、現在のわたし達が食べることができるのですから、安いのではないでしょうか。新宿高島屋で、たまに見つけます。

 古いから有難いというわけではなく、今もなお支持されている点が、鍼灸とよく似ていると思います。

 なので、がんづぎ、こうれん、歓喜団をたべると、伝統を受け継ぐことなどを、考えちまいます。

 

2016年12月1日木曜日

戸や窓を開放する文化

 3月に、南京中医大学と学術交流しましたが、そういえば、泊まったホテルは玄関を解放してあって、外の肌寒い空気がはいっていました。中国の方が、「この地方の風習だ」と言ってたのを思い出しました。だから、寒くて、南方といえども痺症が多いのだそうです。



 数年前に、安徽中医薬大学に招待されたとき、宏村という古民家街を観光したことがあります。

 古民家は、家をロの字形に屋根をくみ、真ん中は開けて、天井(てんせい)とよぶ、空がみえる、雨がふきこむ空間が設けてありました。

 案内者の解説によれば、風水思想にもとづく、天地と一体になる空間で、四方向の雨水が入り込むので、四水帰堂というそうです。吉相ですから、家の中に雨水が吹き込んだごときは、気にしないそうです。

 吉相かどうかはわかりませんが、「天地と一体になる、」というのは、大事な思想だと思います。日本でも、かつては雨戸をはずして解放していましたから、中国の影響があったのかもしれません。

 現今の住宅では、開け放つことはほとんどないですから、基盤になる思想が変わったのだと思います。それで住宅が閉鎖的になり、そして人間も閉鎖的になっているかもしれません。家が陰、外が陽だとすれば、陰陽交流が断絶しているといえるのではないでしょうか。

 風水では、お墓のことを陰宅といいます。生きているあいだの住まいが陽宅です。ご先祖の陰のお蔭で、今の陽が有るわけです。陰陽が交流しているととらえるようです。死後、お墓を作っておしまい。なのでは有りません。

 こうしてみると、わたしたちが陰陽思想を学んでいるといっても、机の上だけで、表面的な理解にすぎないなあ。

 住宅といい、お墓といい、生活の中に陰陽がとけ込み、人生の中で陰陽を味わい体感しなければ、陰陽の真の理解を得ることはできないでしょう。

 以上のことを踏まえると、わたしたちが、陰陽だ、五行だといっているのは、表面的理解にすぎない、本当のところは理解していないと思います。西洋医学を批判するまえに、わたしたちの「東洋」を、生活レベルから自己批判せねばならないようです。