2017年4月30日日曜日

『孫子』

 今の、マイブームは『孫子』である。あちこち手を出せるようになった、ことがうれしい。老化は下り坂というけど、そんなことはない。からだの機能は落ちるけど、経験や知識が増えることによって、視野が広がり、なかなか面白いのである。

 そういう意味では、アンチエイジングというのは、片寄っている。老化には良いこともあるし、悪いこともある。両方あるんだから、目くじら立てて、抵抗するまでもないのにと思う。

 アンチエイジングに目くじら立ててもしようがないので、『孫子』を読んで(今更ながら)医療人としての心構えを再構築したい、と思っているのであります。目標としては、100歳まで生きる予定なので、あと40年。一から出直しても良いかなと。

2017年4月29日土曜日

浅野裕一『孫子』とトランプ大統領

『孫子』(講談社学術文庫)の浅野裕一解説。
「戦争の本質をわきまえるならば、最善の方策は、敵国の意図を素早く察知し、敵国が軍事行動を起こす以前に、その計画を撤回させることである。」「ただし、敵国の策謀を未然に挫いたり、敵国の同盟関係を解体したりできるのも、自国に画策の材料となる軍事力があればこそである。もし、自国が軍事的に全く無力であると見透かされたときは、敵の侵攻計画を断念させたり、同盟国に参戦の意志をひるがえさせる、いかなる取引や裏工作にも、相手は決して乗ってこない。」

 これは、米国のトランプ大統領の作戦と全く同じである。北朝鮮を説得するには、あるいは同盟国である中国を引き離す、そういう戦略ができるのは圧倒的な軍事力をもった米国しかない。トランプ大統領は、『孫子』を読んでいるのか。あるいは、同じような戦略の西洋式兵書があるのだろうか。

 両国の間にたつ日本は、右往左往するしかない。右往左往しながら、どのようにして一国のプライドを維持していくのか。首相の力量が問われるところでしょう。

 米国の大統領にしろ、日本の首相にしろ、「帝王学」というのは欠かせない。

 わたし達も同じである。小さいながらも一国一城の主。学校では、生徒の指導者。鍼灸にも、それなりの「帝王学」が必要ではないでしょう。

2017年4月24日月曜日

岡本一抱『灸法口訣指南』

 昨日、丹塾古典部で、岡本一抱の『灸法口訣指南』巻一を読み終わりました。3時間×3日間。一抱30才以前の作品ですが、単なる引用文集ではなく、冷静な批判も交じった秀作でした。知識の量、明晰な頭脳、臨床力、あの時代では、突出しているのでは無いでしょうか。

 先人の知恵を受け継ぐことは、たのしいものである。そこに、漢文、読みにくい、というハードルがあるけれど、無い頭を使うのも、たのしいものである。

 昨日のNHKのスポーツ番組で、プロボクサーの穂積さんが「試合では、練習したことしか出ない」と言っていたけど、ぼくが古典を読むのは、アスリートの練習と同じだ、とおもったら、一層たのしくなりました。道は険しいけど、険しくない。

 沢庵の、「こころこそ、こころまよわす、こころなれ、こころにこころ、こころゆるすな。」が少しわかったような。

2017年4月17日月曜日

昼寝のあいだに

 東京新聞4月15日朝刊に、神奈川県の黒岩知事の「未病の改善に全力で」という記事が載った。

 神奈川県の最重要政策として、政府にもはたらきかけたが、担当する役所が存在しないとのことで、全く相手にされなかったという。お機関や大学と覚え書きを結ぶことなり、その影響からか、今年の2月に健康・医療戦略の中に正式に「未病」が盛り込まれ、閣議決定したとのこと。

 県の未病産業研究会には430社が参加しているとのこと。閲覧してみると、鍼灸関連では、ふたつの師会だけで、まるっきり影響力なさそうである。神奈川県のHPをのぞいてみると、着実に「未病」政策を実行している。

 新聞には「未病」は『黄帝内経』発と書いてある。その『黄帝内経』の近くに居ながら、「未病」を何も発信できなかったし、関わりも出来ていない。

 居眠りして店番している間に、お店の品物が無くなって行く。導引(ストレッチ、マッサージ、呼吸法)も、食養も、瞑想も・・・

 鍼灸が単独で生きていくならば、もっと本気を出さなければ、あやうい。この惰眠はいかんせん。

 

2017年4月8日土曜日

桜の花

 この時期になると思い出すのが、沢庵の「不動智神妙録」に引かれた、慈円の歌。

 「柴の戸に、匂はん花も、さもあらばあれ、ながめにけりな、恨めしの世や」

 柴の戸の近くに咲いている花は、無心に香りをただよわせているだけなのに、自分は花に心を止めて眺めている。自分の心が花にとらわれ執着しているのが恨めしい、と詠んでいるのです。
 見るにつけ聞くにつけ、一箇所に心を止めないことを至極とするのです。

 これは、『沢庵禅師逸話選』(禅文化研究所編)から引用しました。

 つまるところ、花に心を止めることは、まるで花に関心が強いようだが、実はちっとも花を理解していない、のである。一点に集中するから、まわりが見えなくなる、のでしょう。

 治療のとき、病気に心が止まると、かえって病気が分からなくなり、鍼に心が止まると、かえって鍼がわからなくなる。

 この時期になると「柴の戸に」を思い出して、満開のさくらに浮かれないように自分を誡めるが、まいねん桜の花に浮かれている、自分が恨めしい。

 
 

 

2017年4月7日金曜日

5月4日 丹塾シンポジウム

 5月4日の、成城で行われる丹塾シンポジウムは、快挙事である。なぜなら。

 午後の正木晃先生は、昨年に続いての講演。仏教学者で、現在の仏教界にけんかを打った『お坊さんのための仏教入門』という本は、ぜひよんで欲しい。

 この本の中で、「現代の仏教界が直面する難題」として、①葬儀離れ・墓離れ・寺離れ、②僧侶の品格、~~と5項目にわたって、今後仏教が衰退していくだろうことを案じて、問題を提示している。

 軌を同じくして、午前の明治医療大学の矢野先生も、鍼灸受療率の低下傾向から、おいおい鍼灸は廃れていくので無いかと、警鐘をならしています。

 どちら業界も、まだ大丈夫、というぬるま湯に浸かっていて、波が引いているのに気づいていない。社会のニーズを呼び起こすような取り組みをしないかぎり、どちらもおいおい消滅していくのではないでしょうか。

 矢野先生のお話がどのような内容になるかは分かりませんが、教育面で言えば、教育内容が、30年前とほとんど変わっていないことかも。知識内容は増えていず、鍼灸の練習が反って低下している。これでは、社会のニーズに応えられるはずがない。レストランのシェフも、ラーメン店のご主人も、みなさんよく研究なさって努力して、いまの盛業を獲得している。さぼっていては退場させられるのは自明の理。昭和の鍼灸はそれでも良かったが、平成になったらそうはいかない。

 『論語』八いつ篇に「天はまさに夫子を以て木鐸となさんとす」とあるように、成城シンポでは警鐘が鳴るでしょう。刺激的なシンポになると思います。みなさん、迷うことなく、参加されたし。

 「丹塾」で検索すると、案内画面が出てきます。定員がありますから、速く申し込んでください。

2017年4月3日月曜日

張先生の納骨

 3月20日(月)に、張士傑先生の納骨式に参加してきました。(2週間も経過していますが、昨日のことのようです。)

 張先生には、10回ほど治療していただきました。いまでも「みやかわさん」という音声が耳にのこり、そしてタバコをすすめてくれたお姿が髣髴とします。

 北京市営の天寿陵苑という所で行われ、参列者は、ご家族、ご親族、同業の先生方、そして弟子達。総勢50名くらい。弟子達がたくさん参集してくれたので、ご家族にとっては、故人の業績が一層輝いたのではないでしょうか。

 納骨は、張先生とご両親の、合計3体でした。ゆえあって、ご両親のお骨をお墓に入れられなくて、ずっと抱えもっていたと聞きました。日本では、お墓を持つ、持たない、お墓を移すとか、お墓をしまうとか、個人の事情によるものですが、中国ではそれだけでなく、お国の事情も絡んでいるようです。そういった意味でも、日本は平和だなあ、安穏だなあ、と思いました。

天寿陵苑は、北京市中心から直線で50キロくらいの所。HPがあるので検索してみてください。

 納骨式というのはおそらく古い儀礼なのでしょうが、いまは葬儀業者が取りしきった、簡略で、形式的なものでした。むかしは、仏教の僧侶なり、道教の道士なりが、儀式の中心に居たのでしょうが、現在は葬儀業者がそれらしく執り行っていました。「たましいがこもっていない」と言えるのですが、日本の葬儀もそんなに「たましいがこもっている」わけではないので、ひとのことは言えません。

 日本の葬儀でいちばん腹立たしいのは、仏教儀式であるのに、お通夜で、酒が振る舞われ、おつまみにお寿司、唐揚げなども出てくることです。不真面目もいいところ。軽薄の極みではないでしょうか。子供じみています。そういう光景をみたくないので、焼香したらすぐ帰ってくるようにしています。

 そういえば「礼にあらざれば、見るべからず」と『論語』顔淵篇に書いてありました。