2015年12月23日水曜日

『老子』

『老子』第一章に「道、可道、非常道」とあり、これにより『老子』の命題が「道」であり、「常」であることがわかる。続いて「名、可名、非常名」とあり、つづく命題は「名」であり、その「名」は人為を指していて、非人為の「道」と対になっている。実に良くできた構成である。

 この第一章が『老子』の大綱領であり、第二章以下は、それの縷々たる説明にすぎない。全部で八一章あるが、普通には、陽数九の二乗であると言われているが、『老子』がそんな作為をするわけがないから、仮に八一章だったとしても、偶然の数字である。(森共之先生の説)

『老子』の命題が「道」であることは有名であるが、「常」であるのはあまり言われていない。第五章に「虚而不屈」とあり、道は虚であるが、尽きない。第六章に「綿綿若存」とあり、連綿と存続する。第七章に「天長地久」とあり、天地はとこしえである。というような記述があちこちにあり、『老子』の本意は「常」にあるのだと想像できる。

 老子は、持続可能な社会をめざして、「常」の実現に力点をおいたのだと思う。養生をして「常」をめざし(長寿)、小国寡民を為して「常」の国を維持し、自然と一体になることにより持続可能な社会を目指したのではないか。第三十章に「大軍之後、必有凶年」とあるのが、大いな憂いなのではないだろうか。

 養生の語は、『老子』に見えないが、同義語の「摂生」は見えるし、「益生」「長久」などの語が見えるから、養生説の祖は、老子だと言っても良いだろう。その「養生」は、単に個人の健康、長寿のためではなく、家族のためであり、子孫のためであり、地域社会のためであり、自然を大切にすることでもある。いずれにも隔てを作らないことが大切で、いずれも持続可能な社会に貢献することなのである。養生は個人のものではないのである。

 養生が個人の幸せのためだとすれば、老子が嫌うところの「有欲」の極みである。養生をして「個」が独立するのでなく、養生の結果、「個」が廻りと一体になり、道と一体になることが、老子の目指したところである。

 このように「常」を理解すれば、ようやく養生学を始めることができそうである。養生書を読んだり、貝原益軒の『養生訓』をよむことが養生だと思っていたが、おおいに反省しているところである。

2015年12月14日月曜日

老者には之を安んじ

 久方ぶりに、『サライ』の論語特集号(2007年3号)を開いたら、野末陳平さんのページに至る。

 そこには、『論語』公冶長篇の「老者には之を安んじ、朋友には之を信じ、少者には之を懐けんと。」が引用してありました。

 「老人には一緒にいて安心される存在であり、年下も含む友人には真心で接して信頼され、若者には慕われる」という意味です。この文章は、ちょうど土曜日に読んだところ。

 孔子が顏回と子路に対して、お前達の志(こころざし)を言ってみなさいといい、最後に自分の志を「老者には~~」と述べたくだりである。

 野末陳平さんは、最後に 「しみじみ、いい言葉だと感じています。この境地が今の人生目標といっても過言ではありません」と結んでいる。実に、渋い選択だなあと感心しました。野末さんは、『論語』に関する著作があるほどの勉強家で、その上で「老舎には」を選んだところに、熟達者の味わいがある。

 孔子が唱えた「仁」の、より具体的な、そして日常的な、到達点が、「老者には」なのかも知れません。礼だとか、義だとか、信だとか、孝だとか、弟だとか、こまごました科目があるのだけど、ひらたく言えば「老者には」ということになるのだと思う。「仁」の最終目標は、平和な社会であり、その到達の現れが、老者、友人、若者と和やかに融け合うことなのだ、と静かに語ったのだと思う。

 子路は、私物の車やコートを友達に貸して、壊されても不満を言わない、破られても憾まないといい、顏回は、良いことをしても誇らしげにしない、手柄をたてても威張らないと言いました。二人は自分のことを言ったまでのことで、「老者には」と言って、自分のことではなく、「社会の調和」がわれわれゴールなのだ、と教育的に指導したのでしょう。きっと。

六不治


 『史記』扁鵲倉公列伝は、扁鵲の段と倉公の段に二別されるが、扁鵲の段の末に「六不治」とういう一章がある。有名なのだが、「不治」に対して誤解されているので、一言。 「不治」は、「治らない」と訳されることが多いのですが、「治らない」のは「不已」「不愈」とあらわします。「不治」というのは、「治療を加えない」という意味です。
 
 なので「六不治」とは治らないケースではなく、扁鵲が治療したくないケースです。たとえば第一の不治は「驕恣にして、理を論(さと)らず」といい、おごり高ぶって、自分勝手で、道理を理解しないようなヤツです。実際、こんなヤツでも病気は治りますから、やはり治らない理由ではなくて、手を出したくない理由なのです。
 
君有疾、在腠理、不治將深」
 扁鵲が斉国の桓侯に対して言ったことばです。貴方には病気があります。病気は腠理にあります。治療しなければ(治せずんば)、病気は深く隠れてしまうだろう(将に深(かく)るらん)。実際には桓侯の治療はしていませんので、「治らなければ」とは読めません。『内経』にも死不治」という句が出てきますが、「死が近い、なので治療しません」という意味です。「死が近い、治りません」という意味ではありません。

「治る」という意味では、倉公の2番目のカルテに一日氣下、二日能食、三日即病愈、」とあります。服薬して3日目で病気が治癒したとあります。3番目のカルテも「三飮而疾愈」とあります。また、5番目のカルテには「一飮即前後溲、再飮病已」とあります。「愈」と「已」は同音で、通用し、「いえる」という意味です。
 
 折角ですから、扁鵲先生が治療を断る6つのケースをみておきましょう。
   
 驕恣不論於理(おごりたかぶって、自分勝手で、道理を理解しようとしないヤツ。)
 
 輕身重財(身体よりも、金銭を大事にするヤツ。)
 
 衣食不能適(衣の適度さをコントロールできないヤツ、食の適度を守れないヤツ。)
 
 陰陽并、藏氣不定(陰気と陽気が交戦し、蔵気が不安定なとき。陰陽并は『霊枢』玉版篇によれば悪性腫瘍ができている状態。)
 
 形羸不能服藥(身体がやせ、薬も飲み込めない状況のとき。)
 
 信巫不信醫(お祓いを信じ、医者を信じないヤツ。)
 
 有此一者則重難治也(このうち一つでもあれば、私には重荷。加療しがたい。)
 
 最後の「重」は、「重ねて」とも読めるが、「有此一」とあるので「重ねて」とは読めず、「重くして」とも読めるが、「軽身重財」が必ずしも重病とは限らないので、いろいろ考えてみると、このような人たちの治療は僕には「重荷」だ、というのが一番落ち着くところである。

 

2015年12月11日金曜日

愛読書は『老子』

 10月21日(水)のNHKのあさイチという番組(8:15~9:54)は哲学を特集し、その場にいた6人のうち2名が、『老子』が愛読書だという。単純にいって三分の一。学校の授業の初めに、聞いてみようかな。『老子』を読んだことがあるか、と。

 一人は有働アナウンサー、もう一人はゲストの柳沢アナ。原点に戻れる古典があるというのは、一つの幸せでもあります。古典でなくても良いのですが、原点に戻ることができるのは、貴重なことです。『論語』もしかり。

 『内経』も貴重な原点です。帰る、家がある、故郷があるような、ほっとする書物でもあります。入門の時は、読まなきゃ、中身を知らなきゃ、というような強迫感があり、不幸感がありましたが、今は読むのが幸せでもあります。その中から、何を見つけられるのか、何がとびだしてくるのか、とてもわくわくしています。

 18日の基礎講座に、オリエント組のK君が飛び入り参加してくれました。彼が所持する『霊枢』は、だいぶ読み込んだらしい風格がありました。羨ましい限りです。『論語』の「一隅を挙げて、三隅をもって反す」がごとき、気配を感じました。

 第2日曜日は日曜講座ですが、古参のTさんは、実際に三隅で返す悦びを得たらしく、『内経』を読むのが楽しそうです。

 いずれにしても、帰る古典があることは、なにより幸いであります。

2015年12月7日月曜日

恬淡虚無とお灸

 11月29日の講演は、恬淡虚無とお灸の関係を、すこしばかり話してきました。題材は、森共之編の『意中玄奥』の、一部分です。

①「無にして刺し、無にして出す」と云こと、凡そ此の道理に通達せざるものは鍼工と云に足らず。又た病を治することかたかるべし。無とは無心也。補写に心ろなかれと也。是れ則ち補写の極秘にして文字にあらはさぬこと也。幾ばくの門人ありといへども、此の補写の伝を得たるもの無し。

 冒頭の「無にして刺し、無にして出す」、無は無心で、恬淡虚無と同意で、心静かに、無心に、鍼を操作することが森流の極意で、その境地に到達した弟子は居ないという。


②それ灸法に虚実寒熱を問わずして、概して之れを灸すれども、しかも虚する者をば元陽を助け、実する者をば之れを発散し、寒する者をば之れを温め、熱する者をば外に発す。此れ神効あることいかんとなれば、灸にはたくみはかる処なく、補写の心もとよりなきゆへに、能く補ひ、能く瀉す。よつて虚実寒熱を問はず、之を治す。人為の私意手術に非ざれば也。


 灸術は、虚実も寒熱も区別しないで、おなじように施灸するが、それで妙効をあらわすのは、お灸が、一旦火を付けてしまえば、「たくみはかるところの人為」が介入しないので、自然に治ってしまうという。

 鍼術が難しいのは、鍼に気持ちを込めてしまう「私意」が介入して不自然になり、不自然な治療なので、自然に治る力をダメにしてしまうのである。だから、鍼術に上達したい人は、私意を介入させないで、恬淡虚無にならねばならない。これが森流の極意の「無にして刺し、無にして出す」である。

 この文章を読むと、鍼単独の技術は、相当に難しい。そもそも「恬淡虚無の修行」が確立されていないし、「恬淡虚無」の境地に至るまでの道のりも遠そうである。

 そこで、灸術ならば、技術として私意が介入しないのであるから、治療家が未熟でも、恬淡虚無に未達でも、他力的に治してくれるわけである。②のところをよく読んでいただければ、納得いただけると思う。お灸を積極的に治療に取り入れたほうが治癒率は高まるとつくづく思う次第。

 ところで、『意中玄奥』が欲しい人は、ご一報ください。正価でおわけします。