2019年1月30日水曜日

逆縁


 小説家の橋本治さんが、70歳で無くなった。喪主は、お母さん。

 こういうのを逆縁と言うのですが、70歳でも十分長寿なのですから、親不孝でもないのですが、両親世代が長生きだと、こうした逆縁が生じてしまう。昔だったら、親不孝の烙印を押されたかもしれませんが、今じゃ、そうとも言えない。

『論語』は「孝弟は、其れ仁の本たるか」といって、「孝弟」が仁(他者に対する思いやり)の基本であると言う。

「孝弟」は、

 親孝行(親によく仕え、孝行を尽くす=孝養) 
 先祖供養
 忠孝(君主に対して忠義を尽くすこと)
 孝慈(目上に孝を尽くし、目下をいつくしむ)

に分けられます。「孝弟」を全うできる人は、確かに仁者と言えそうです。がしかし、現在は、先祖供養も含めて、「孝弟」を全うなんかできやしない。難しい時代になりましたねえ。


立春

 今年の立春は、2月4日。春三月の始まりです。『素問』四気調神大論の「春三月、謂之発陳」を思いおこします。

 中国伝統医学を標榜するならば、口先だけでなく、生活も中国伝統医学的にしたら、おもしろいのではないでしょうか。

 その代表は陰陽思想。季節に合わせた生活をする。1月1日は新年のお祝いであって、陰陽思想では、2月4日が新春のお祝い。新春のお祝いは、四季があってこそのお祝いですから、もっと大切にしたいところです。

 春だから青いものを着る、すっぱいものを食べるとか、なんだか面白そう。

 『素問』四気調神大論は、その養生を述べた論篇と言われていますが、本意は「季節を大切にしないような奴は、治療家に向いていないぞ」。



2019年1月24日木曜日

拾雲軒

 沢庵宗彭が、慶長十九年に立てた(大徳寺の塔頭の大仙院)の書院が「拾雲軒」。本堂の裏に中庭があり、そのむこうに拾雲軒がある。この写真では、すだれがかかっている建物。京都の観光案内書には載らないし、ネット上にも上がらないので、あまり気にしていませんでしたが、いつぞや大徳寺に詣で、大仙院を巡った際、拾雲軒に通されて、どきっとしました。『沢庵和尚年譜』を見ていて、拾雲軒という字は見ていたものの、まさかその部屋に通されるとは思っていなかったので。極楽浄土と同じように、沢庵と400年隔ててつながったのであります。

 教訓:行ってみなければ、わからない。無駄かどうか判断するまえに、まず行動。

「拾雲軒」の画像検索結果

2019年1月20日日曜日

坐禅和讃

 坐禅和讃は、江戸時代の臨済宗の禅僧、白隠慧鶴の作。11月24日の母の七回忌に、松島瑞巌寺のお坊さんの読経で、ひさびさに耳にしました。読み込んだ声からでたお経が、じ~んとしみました。

衆生本来仏なり。水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし。衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ。譬えば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり。長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず。
 仏典は中国語訳(漢訳)で日本に普及しましたが、その中にあって和語の坐禅和讃は、出色の作なのです。漢文を音読するより、坐禅和讃を読む方がはるかに良いと思うのです。きっと漢文音読のほうがありがたいのでしょう。分かりたいより、有りがたい、というのが日本人のたちなのかもしれません。

 お葬式は不要とは思うけど、松島瑞巌寺の和尚さんの読経を聞くと、お葬式も悪くないと思う。『論語』に、形骸化している「12月の朔日を告げる儀式」の生け贄の羊のことを、子貢は無駄ではないかと孔子にいえば、孔子は「おまえは羊を吝しむが、わしは今まで続いている儀礼が惜しい」と答えたことを、思い出します。

 無駄な儀式を残すのか、伝統だから残すのか。悩ましいところです。

 
 

2019年1月15日火曜日

第六回 鍼灸医学史研究会

 1月13日に、北里医史研と日本内経医学会共催の研究発表会が終わりました。学生さんから、古典の大家、北里のお医者さんまで、さまざまな人が聞きにきていました。100人くらい来たそうです。

 会長として、発表は義務のようなので、毎年、発表していますが、そのため、お正月は無きに等しく、「良いお正月でしたか?」と問われても、pcに向かっているだけなので、お正月感はないのです。

 毎回だと、ネタさがしが大変。定例でいえば、8月の北里主催の教員セミナーもあります。年に2回やっていると、ネタの在庫は切れていて、しかたないから小さな日常から拾い上げることにしています。今回は、国試ですが、新聞でも、週刊誌でも、ネタになりそうなのを探しているわけです。

 というわけで、研究発表会がおわって、新年気分到来。




 

2019年1月5日土曜日

富士山と男体山

(12月31日)武蔵野線を府中本町の方へ向かう荒川の鉄橋の上から、左に富士山、右に男体山がみえました。なんとも至福の数秒です。この冬、日光の男体山が見えたのは昨年の暮れころからですから、二つの山を同時にみることができるのは、珍しいことなのです。通勤通学で使っている人は、茶飯事なのかもしれませんが。

 軽井沢の浅間山も、東側からみるとまるで富士山のようです。富士山にはたて筋があるけど、浅間山はそれが無くてのっぺりしているのが違いでしょうか。見たことは無いですが、関東平野の真ん中あたりで、この3座を見ることができるかもしれません。

 さて、富士山は、どこから富士山なのでしょうか。富士山の裾野から? 地続きといえば関東平野から? それをいえば本州の端から? 見えている所から? 見えない人は? 究極は気持ちをむけたら富士山だということになります。というふうに考えると、富士山はどこからでも富士山なのです。

 これを十万億土のかなたに在る浄土に置き換えると、途方もない先にありそうだけど、その数字をカウントした時点から浄土だともいえるわけです。そうすると遠いが遠くない。遙拝という拝礼法があって、「ずるいなあ」と思っていたけど、いまは「優れているなあ」と合点しました。

gさんの『r』

 昨夜は、鍼灸師仲間のgさんの『r』という演目の、前衛ダンスをみてきました。4登組が登場した新人発表会というものらしく、客席は満員で100名を超えていました。客席にいる人から、けいこ、 とうことばが聞こえてきましたので、ダンスをやっている人も多いようです。

 音楽に合わせて踊っているのはみて楽しいのですが、静寂の中で何かを表現するというのは、まったくわかりませんでした。それでも、観客は、固唾をのんで食い入るようにみているのですから、何か通じるのだと思います。

 gさんのダンスというのは、舞台を100回くらい走り廻ったもので、ただ淡々と、黙々と廻っていました。そこにどのような意図が隠されているのかわかりませんが。gさんならきっとやるだろうなと、指折り数えていました。

 とちゅう、来ていた衣服を一枚ずつ脱いでいき、最後は全裸になりました。これも予想範囲内です。昨年もそうしたという話を聞いてましたから。全裸で10周くらい廻ったのでしょうか。そこで終わりかと思ったら、舞台の上でひな壇で、全裸ショーをやっていました。

 gさんの観客は、静かに見ているとき、気を抜いているとき、驚いているとき、あきれているとき、こもごもでした。他の3組の観客は、集中してみていました。観客の拍手の多さは4組同じようですが、強さはgさんが一番と感じました。驚きのゆえか、芸術の高さのゆえか。

 ところで『g』の意味は。一つは、roundでしょう。ぐるぐる回ってましたから。もうひとつは、rousi老子でしょうか(ピンインでは、laoziですが)。舞台を走りまわる無心さ。それをやりきる無心さ。さらには全裸になる無心さ。ひな壇の全裸ショーの無心さ。

 ところで、gさんのようなことを、老子はしないと思います。やるなら荘子でしょう。などと、いろいろ考えた一夜でした。