2014年8月18日月曜日

中庸



 「中庸」とは、「かたよらず、過不足のなりあり方」というので、ほどほど、中間、折衷と思っていたけど、文質彬彬(ぶんしつひんぴん)が、文と質を両方持ち合わせることであって、文と質の折衷でないとすれば、文質彬彬と中庸は別の概念なのか、そんなことを考えていたら、金谷治先生の『論語と私』に「中と和」という文章があって、はっきりとした答えがかいてありました。

 両端を兼ねあわせるのが中庸だと。

 両端の中間でも、折衷でもないようです。清濁あわせのむ、に近いのかも知れません。『論語』もよみ、『老子』もよみ、というところでしょうか。相対する思想でしょうが、あわせ読む。そうかんがえると、中庸というのは、実にフトコロが深い、大きい。清廉潔白は良いことだけど、エスカレートして、悪い、ずるい、汚いをすべて排除してしまっては、フトコロが狭くなってしまうのではないでしょうか。

 今年の6月29日は、中谷内茂子さんの墓参でした。在学中に病気になり、卒業後まもなく他界された女性で、有志で墓参しようとなりました。お墓は、長野県の坂城町にあり、車で行ってきました。

 墓参者は7名。同級生は船橋さんだけ。その他は下級生だった竹井さん、赤塚さん、石水さん。そしてまったく面識のない後輩である佐々木さん、菅野さんが参加しました。知り合い度がさまざまでしたが、いろいろ混じって「中庸?」の集まりになりました。

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