2014年6月5日木曜日

儒教の原型

ひろさちや・山下龍二『ひろやちやが聞く 論語』(すずき出版)の、ひろさちやの「まえがき」が奮っている。

 
 わたしたちは、この儒教の原型を知る必要がある。その必要性を、わたしは声を大にして叫んでおきたい。
 なぜなら、わたしたちが儒教の原型を知るとき、日本の「儒教」がいかにインチキであるかがよくわかるからだ。そして、日本の「儒教」のインチキさが暴露されると、わたしたち日本の庶民が、いかに無責任な政治家どもに誑(たぶら)かされてきたかが明白に見えてくる。その結果、世紀末に生きるわたしたち日本の庶民が本当の幸福を得るには、「どのように思考すればよいか」「どのように実践すればよいか」がわかってくる。・・・・

日本仏教については、本文で、

(日本には)お釈迦様の仏教もなければ、お釈迦様後の仏教もありません。・・・中国の仏教もじつは、日本に入ってきていない。・・・日本の仏教には、五、六人の天才がいて、その中でも空海と道元と親鸞の三人はまた飛び抜けて大天才なわけです。

と、日本仏教は、日本化された仏教であって、仏教の本当の教えは、日本の仏教では学べないという。仏教だと思っていたのが、仏教じゃない。ありがたいお経は、ありがたくない。

 もしかしたら、鍼灸も同じではないか。日本の鍼灸は、自国内で生きて行くだけなら、いまのままで良いのだが、鍼灸の本当の教えを知るためには、鍼灸の原型を明らかにしなければならないだろう。馬王堆・張家山の出土文書は、その原型をしる手がかりとして、最良無二の宝物であると確信する次第。


 「鍼灸の原型」、たのしみになってきました。 「原型」がわかれば、「どのように思考すればよいか」「どのように実践すればよいか」が明白になり、鍼灸師が幸福になる、はずである。


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