2020年8月22日土曜日

ふたたび『慢とのつきあい方』

「日々是好日」は、「良いことも、悪いことも、宵越ししなければ、新鮮な毎日になる、という意味だとおもって、何回か前のブログで書いたのですが、・・

 ふたたび「慢とのつきあい方」(テーラワーダ仏教協会)をよんだら、

「人は何にでも価値をつけたがります。自分だけでなく、何にたいしても価値を付けたがるのです。価値を付け、そして対応します。」

 1円玉には、1円の価値をつけ、落ちていても素通りします。1万円札には、1万円の価値を付け、落ちていようものなら、拾うか、拾わないか、廻りをキョロキョロし始めます。

 黒い昆虫。カブトムシだったら好ましく思い、ゴキブリだったら大騒ぎ。こうして価値を付けているのだそうです。

 この前、のろのろ走っている車に「悪」の価値をつけ(一時停止違反を警察官がみていた)、その車が居なければ、急いでいた自分は一時停止違反をしていたかも知れないので、のろのろの車は「善」に価値づけしなおしました。このように、「瞬間瞬間、測って価値を入れ、執着しているのです」。

 ぼくは、瞬間に入れ替わる善悪に執着してはいけないと思ってましたが、そうではなくて、「慢とのつきあい方」によれば、価値判断することが執着だというのです。価値判断さえやめれば、善悪が生まれないわけです。なにしろ、モノ、ひと、ことを、比べると善悪が生まれ、それを引きずって、苦労するのです。

 モノに対しての価値判断はまあしかたないとして(ゴキブリは恨まないでしょうから)、他人に対しての価値判断はしないほうが良いとおもう。あの人はだめだ、あのひとはどうだ、こうだ。それを聞いたら、本人はイヤな気分になるに違いない。

 いずれにしても、価値判断することは、すこしづつ減らしていったほうがいいらしい。







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