2019年9月26日木曜日

伊藤仁斎『論語古義』


 全5日間の旅程の間に、伊藤仁斎の『論語古義』読破を試みましたが、3分の1くらいまでしか進みませんでした。しかし、得るものは多大でした。

 老子がいう無心無私は、抽象的な概念で、具体的にはどのようなことをすべきなのか、皆目見当がつきません。社会生活において、なにを為せばいいのか、模索してました。

「今の世間で(孔子の)道を知らない人は、きっと目さきの効果をあげるのに急で、喪をていねいにすることを馬鹿にする。末世の風俗のぞんざいさになれて遠祖を忘れる。こんな人は自分の行いぶりがすでに薄っぺらである。」

 自分の身の回りの無心無私はもちろん必要なのだろうけど、祖霊を祀ることや、先人を顕彰することなどをきちんと実行することが、きっと老子のいう無心の一端なのであると確信したしだい。

 一個人の無心無私であれば、家に閉じこもっていればいいのであり、一治療院の長であればいいのであるが、そこから出なければ本当の無心無私とは言わないのだろうとおもう。むしろ、社会の中の無心無私が第一義なのかもしれません。

 というようなことを、3分の1で考えたのです。

 

2 件のコメント:

  1. 森三樹三郎『老荘と仏教』では、「万物斉同の理を知ることは可能であるにしても、その境地になることは至難のわざである」「この荘子の残した課題をとりあげ、その解決にあたったのは、道家の後継者よりも、むしろ仏教の禅宗であり、浄土教であったといってよい」というように、無心無私には「実践」の宿題が残っているのです。

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  2. 荘子が、禅宗、浄土宗だとすれば、老子は、論語、儒教ではないかと思うのです。論語と老子は、同一基軸にありそうな気がします。

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