2019年9月15日日曜日

『論語』と無心

 森共之の「意仲玄奥」に、無心に鍼を刺すことが極意であるようなことが書かれている。その無心を追いかけているが、仏教の無心、老子の無心とあり、どうも孔子にも無心があるよう。現時点では、以下のように分けています。

 仏教の無心は、徹底的な無心
 老子の無心は、意図的でないさま
 孔子の無心は、私心がないこと

 仏教の無心は、出家を条件として、究極的。『論語』に無心とは書いていないけど、行間を読むと書いてある。老子の無心は、両方を兼ねているような気がします。なので、老子と孔子は似ているし、老子と仏教も似ているところがあるわけです。

 孔子は、仁(思いやり)を提唱するのですが、無私の裏付けがないと、仁は実行されません。わかっているけど、行動に移せない。行動が伴わないのは、孔子が批難するところ。

 『論語』雍也篇で、孔子が冉求に対して、「なんじは、かぎれり」と言ったところは、冉求ができないと言ったことを指弾しているのですが、線引きすることが私心に相当します。ここでは、できる・できないの線引きです。線引きして、行動に移さないことを、指弾しています。

 私心、無私という下地で『論語』を読むと、真意をよくくみ取れるのです。



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