金谷治『中国思想を考える』(中公新書)の第三章に「対待」によれば、陰陽だとか、有無だとか、虚実もそうでしょうが、「ものごとを一面的にみないで両面を見、そのプロポーションを全体的に見ようとするゆき方です」を「対待」というそうです。両面思考ともいいます。
陰陽、虚実、寒熱などで、この見方は身にしみているのですが、これに縛られたくないなあ、と思います。
善悪:分ければ善悪の2者になりますが、たいていはルールをまもり、法律をまもって生きているのだから、いつもは善、まれに悪が行われるとかんがえると、善と非善と考えたほうがよいでしょう
動静:生きている活動でいえば、大いに動く(動)、静かに動く(静)。寝ているのは、止まっている訳ではなくて、静かに動いている。という意味では、動と、非動とみなした方がよい。
虚実:有余を実、不足を虚とするが、有余は大いに充実している(実)、不足は欠如ではなくて、充実がたりないという意味とすれば、充実と非充実ということば使いのほうが良いと思われる。虚実補写といえば、固定的に考え勝ちだが、一歩進んで、柔軟に考えてみたいものです。
陰陽:易の陰陽では、必ずどちらかが存在することになるが、陽だけ、陰だけとも考えれる。たとえば、日向が陽で、日陰が陰。つまり太陽を陽として、日向が陽、日陰が非陽ということになる。昼と夜というが、昼目線でいえば、夜は非昼なのです。
思想、思考方法は、たくさんあって、いろいろ学んで柔軟に対応したいのです。一つの考え方で固定し、それで強引に押し通すのは、力づくではないでしょうか。そういう意味で、陰陽五行盲信派には、つよい違和感をおぼえる。
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