昨日は、黄龍祥先生を招いての講演会、シンポジウムが行われました。先生は、長年の『内経』の研究から、『内経』を読み解く鍵は、血気、脈だ、と宣言しました。
会場から、先生のおっしゃることは、九鍼十二原篇の「粗は形を守り、上は神を守る」と同義なのですか、という質問があり、黄先生は、その通りだ、とおっしゃった。
しかし、質問者の意図と、黄先生の含意が、よく分かりませんでした。
「粗は形を守り、上は神を守る」にひとこと。
九鍼十二原篇は、兵家思想を基盤にして書かれている。(この前提で読むと)「粗は形を守り」、粗工は、兵隊の数とか陣形といった現象(形)を観察する。「上は神を守る」は、上工は、この戦いの神気を観察する。
サッカーの試合でいえば、先発メンバーのことや、向こうの作戦ばかりを重視する監督は、粗工である。勝ち負けは、一つのパスミスや、1人の戦意喪失で決まることが多い。これを神気を失うといいます。1人の果敢なプレー、タイミングの良い選手交代によって、戦局が逆転することもある。これを神気を得るという。このことを、上工は神を守るというのだとおもいます。
神を訳せば、勝ち負けの転機でしょうか。病気が治るか、治らないか、その転機のことを神と言うのです。そうすると、気や血という問題ではないのですが。
神=心 といった単純なものではなく、転機やタイミングとするのはとても深いと思います。なおさら血気って?脈って?となりますが。黄先生の行き着いた答えをもっと覗いてみたいものです。
返信削除九鍼は勝負に使う道具であり、見方によれば兵器なのです。気を診ることや血を診ることはごく当然。決めては神をみれるか。兵器を使って生かすか、殺すかなのです。(ビリビリしますね。)
返信削除「形」は目に見えるもの、「神」は目に見えないもの、と単純な分類で捉えるのはどうでしょうか。
返信削除多くの現代人は目に見えるものしか信じようとしないのですが、それは2000年前も状況は同じだったのでしょう。2,300年前から始まった西洋医学の追求も目に見えるものをより詳細に明らかにしようとしていますが、手詰まり感があるように感じます。
黄先生の内経観は目に見えないものをどのように診断し、治療に活かすかで、その代表が脈としているのではないでしょうか。望聞問切で、どんなに化粧をして顏色を隠しても、どんなに香水で臭いを隠しても、どんなに嘘で固めても、上工の診脈はすっかりお見通しです。そして、皮膚、筋肉、骨、血管、神経、内蔵とあらゆるものは解剖で確認できますが、経脈は目に見えません。目に見えなくて当たり前だと思うのです。経脈の存在を信じているという思想で治療ができるのならば、目に見えるものなど大したことはないと思うのです。それこそ治未病ができる。
「下工は目に見えるものしか信じようとせず、上工は目に見えないものの存在を信じて感じることができる。目に見えないものなのだよ!目に見えないもの!」
天満先生はいつも「じょーだんじゃないよ!脈だよ脈!」とおっしゃっていますが、同じことかもしれません。
「内経」は神=脈=つながり(縁、円、万有引力)という発想で、見えないものをどのように文字で表現するかに挑戦しているのかもしれません。
鍼の真髄は見えないものをどうやって物理的なもの(九針)で操作するか・・・なんて楽しい世界に入り込んでしまったんだ。つくづく感じます。笑
「目に見えるモノ=形」は良いとして、「目に見えないモノ=気」というのが決まっているので、わざわざ「神」を使う理由が、欲しい所です。「神」は崇高な存在ですから、それに近いモノでなければ。
返信削除漢辞海を開くと、「神」の名詞3番目に「自然の法則」があります。
返信削除個人的に「神」のイメージは「自然の法則=縁」としているのですが、問題は内経ではどうかですよね。
陰陽で考えますと、「形」は陰で「神」は陰陽を作った根源である太素になるのでしょうか。もしくは比較として「形」を出してきているならば単純に陽なのかもしれません。
「粗守形上守神」と直後の「粗守關上守機」は大切なことだから同じことを再び言っている解釈し、比較すると「關」は閉ざされた空間(人体)で、「機」=「気」で働き、しくみと考えても単純に陰と陽で表現できるのではとも思います。
「神」を太素であると考えると、「形」(いま現実に見えている人体の形や動きの変化や痛みなどの訴えである結果)と、「神」(なぜ今そのような状況なのかという働きや、それに至るまでの経過などの原因)と因果について説いているのかなとも。
これが「血気、脈」につながるのかが怪しくなってきた気がしますが。
「神」にいろいろな意味があるのですが、その意味は「文脈に合うか」で決定されます。文脈というように、文字のつらなりなのですが、どこまでが1つの文脈なのか、その判定も難しいところがあります。その判定は主観的でないのが望ましい。思い込み、偏見、常識のとらわれ、予見などが無いのが望ましいのです。こういう難しさがあるので、古典が面白いのです。
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