真という字は、道家文献(『老子』や『荘子』)に限定的に使われる、という特長がある。『内経』にも使われているから、きちんと理解するためには、道家思想を学ばねばならない。
真は、道と同義で、真気とは道の気ということになります。道の説明は端折るとして、道と自然は同義とされていますから、真気とは自然の気とも言えます。
(真気=道の気=自然の気)
太陽がめぐりで、四季が変わるのは、自然の気がそうさせている。
植物が、葉を出し、花が咲き、葉を落とすのも、自然の気がそうさせている。
人が生まれて成長して老化して死亡するのも、自然の気がそうさせている。
飲食をして、消化吸収して、体が営まれているのも、自然の気がそうさせている。
体がいつもどおりに営まれているのも、自然の気がそうさせている。
怪我をしても病気をしても治るのも、自然の気がそうさせている。
自然の気を、医学的にいえば、真気ということになる。
自然の気を、邪魔するもの、それが「心」。だから老子は盛んに無心を説くわけです。
有心になるとどうなるかは、治りが悪い、いつもどおりではない、体が営まれない、早く老化する、という結末にいたる。ということを老子は気がついたらしい。
半月ほどまえからじんましん。昼となく夜となくかゆい。原因をさかのぼれば、30周年記念事業。そもそも人前で話すのがストレス(有心)。真気(自然の気)を損なったので、いつもどおりの営みができなくなっているようです。消滅するのを、自然に待つしかないでしょう。真気というものを(じんましんのお蔭で)とても実感しています。
老子を読んでも無心になりたいという欲で有心。老子というのは無心を説いているようで、誰よりも有心に感じるときがあります。
返信削除老子(老タン?)はかなりの有心から無心になったのか、そんな過程を想像してしまいます。
30周年記念お疲れ様でした。
老子は、有心から無心への道程を、楽しんでいるのだとおもいます。
返信削除