2017年2月11日土曜日

懐かしの我が家2

 もう一枚。
 前の家(奥田さん)の解体の写真です。残っているのが、我が家です。このころ、我が家の周辺に、我が家も含めて5軒のわらぶきの家が残っていました。その5軒は、父親に変わって、解体作業を手伝いました。中学生のころだと思います。

 父親は、まだ50台なのに、なぜ中学生のぼくが手伝いに行かされたのか。近所づきあいが苦手だった。身体が華奢だった。手が荒れることはしたく無かった。全部かもしれません。

 すすが舞って、鼻の穴、目のまわりまで、真っ黒になりました。屋根の藁を取りのぞくと、土壁を壊し、最後は柱や梁にロープをつなげ、みなで引っ張って倒しました。大きな家でも、人力で解体できるのは、智慧なのでしょうか。これが、コンクリだったら、人力では壊せないでしょう。

 解体作業の写真もありました。藁をトラックに積んで、近くの畑で焼いてました。藁をばらす係、それを束ねてトラックに乗せる係、藁を焼く係。思い出しました。わらを束ねる係をやりました。

 老子は、小国寡民、小さなコミュニティを理想としましたが、今思えば、水主町は、老子の理想郷だったのかも知れません。地域のことは、地域の共同作業で、自力で処理する。日本全国どこにでもあったことなのでしょうが。

 集団の時代から、個の時代にかわって、失ったものもあり、得たものもあり。






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