昨日の丹塾古典部では、沢庵『医説』を引き続き読みました。
丹精を込める、精力を尽くすのは、腎にやどっている精の力に由来する。合わせて言うなら腎精であるが、二つの意味が込められている。たましいとしての腎精と、生殖能力としての腎精である。
『医説』で問題にしているのは、たましいとしての腎精であり、「気を使ひ、物に精をいだし、もの多くいひ、高声をいだしなどし、力を出しなどすれば、末の精からつくして、本へこたふるなり」といい、最終的には腎(本)を損なうのだという。性的行為だけでなく、老化だけでなく、力を出し精をつくすと、腎を損なうのだという。こういうことは、誰も言ってないと思う。よくよく踏み込んだ人なのである。
腎精の能力が高いひとが、気配りするには、さほど損なわないのだろうけど、腎精が低い人が、気配りしてしまったら、損なうこと大である。気配りするしないの問題ではなく、腎精の高低なのである。腎精の高低に気づくことである。腎精は、生まれ持ったたましいであるから、無心になって自分をみつめないとなかなか、その高低はみることができない。第三者が見て上げるとしても、その人も無心にならないと、こころの奥底にあるたましいはみえない。のであるから、とても難しい。
『医説』を読むと、沢庵は無心の人だなとつくづく思う。「なんで沢庵なの?」と問われるが、この医学を客観的にみてくれる人なので、とても啓発されるからであります。
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