2017年10月18日水曜日

論語古義~金沢大会

 伊藤仁斎著『論語古義』を読む。とはいっても、貝塚茂樹先生訳です(中央公論社、日本の名著 13)。

 学而篇の「人の己れを知らざるを患(うれ)えざれ。人を知らざることを患う」

 吉川幸次郎は「自分が人から認められない、というのは、自分の悩みではない。認められるような点がない、というこそ、悩みである」と訳す。

 仁斎は「学者は他人が自分の善を知らぬことをなやまず、自分が他人の善を知らぬのをなやむべきであることをいわれた」と訳す。

 そして「思うに善が自己の中に存在しなければ、他人の善を知ることができない。それで君子は他人の善を知らないのをなやむのである」と追記する。

 深耕の度合いが格段に違う。一通り古典が読めるといっても、これだけの差がある。この学問に一生をかけた仁斎のたましいが、この文章だけでも読み取れる。

 伝統鍼灸学会学術大会の実技供覧は、かつて興行的だという批判があるところで、学術大会なのだから、討論の時間を増やせ、研究発表の機会を増やせという意見があった。学会を客観できる立場になって、学術大会をみると、その意見の通りだとおもう。

 おそらく、わたし達に、学問軽視かどうかわからないけど、実技重視の意向があるのだと思う。両方は一緒のものであり、偏重は好ましくないと思う。さらに、「見て理解する」だけでなく、「考えて理解する」ことは、避けずにやらねばならない。

 金沢の学会に参加しての感想でした。むりやり、古義と大会を結びつけてみました。

 

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