2017年6月14日水曜日

司馬牛憂う

 6月11日の内経医学会の講座で、『論語』顔淵篇の「司馬牛憂いて曰く、人皆な兄弟有り。我独り亡し。・・」という条文を読んだ。回答したのは子夏で、君子は慎めば失敗がなく、恭しくして礼があれば、四海すべての人が兄弟だから、兄弟がいないことを悩む必要がないよ、という。ここには孔子の回答は無いので、文面通りよむしかないのだが、おどろいたことに、下村湖人は『論語物語』には、孔子のせりふが用意されている。

「君が、兄弟たちの悪事に関わりのないことは、君自身の心に問うて疑う余地のないことじゃ。それだのに、なぜ君はそんなにくよくよするのじゃ。なぜ乞食のように人にばかり批判を求めるのじゃ。それは、君が君自身を愛しすぎるためではないかな。‥‥われわれには、もっとほかにすることがあるはずじゃ」(兄弟はいたらしい。なぜ、いないと言ったのかというと、しょうらい戦乱に巻き込まれて戦死するかもしれないから。というのは朱子の説。)

「人の思惑が気にかかるのは、まだどこか心が暗いところがあるからじゃ」

 『論語』には無いことばを、下村湖人はすくい上げたのです。この読み込みの深さは、だれも及ばないところです。下村は、孔子は無私を強く主張している、と考えている。無私という意味では、老子とあい通ずるところがある。この読みの深さは、思想家以上ではないでしょうか。

 いつか『内経』もこれくらい深耕してみたい。





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