2013年12月18日水曜日

宮里優作 腰が抜ける

 12月8日、日本オープン。宮里優作は、ついに初優勝をつかむ。プロになって11年目の初優勝。その最終ホールの第1打・第2打はミスショット。第3打目のチップインパーで優勝を決める。
 なんと、その後、しゃがんで、立てなくなってしまった。「あれが腰が抜けるという感じなんでしょう。足がもう一歩も出なかった」という。そのあとも、膝に手をのせ、支え棒にして何とか立っている状態。

 さて、腰が抜けるとは、立っていられなくなるのは、何がそうさせているのだろうか。
「これは生理学的にいうと、突然に大脳の中に異常で強力な抑制が生じ、そのためにそれ以外のことが全然意識もできなくなり、全ての行動が抑えられます。意志が体の他の運動に及ばないため、行動ができないという現象なのです。医学的には、脊髄神経の中の腰の筋肉を動かす腰神経の機能が一時停止してしまう状態です。」

 『霊枢』本蔵篇に「志意は、精神を御し、魂魄を収め、 寒温を適え、喜怒を和する者なり」とある。この中で、日本語の「こころ」に相当するものは、志意、精神、魂魄、喜怒と、オンパレードである。宮里優作の大脳は、どれに相当するのだろう。

 志意は、『霊枢』本神篇に「物事を処理(任)するのが心で、心が記憶しているのが意で、意が存続するのが志だ」とある。これからすれば、経験した考え、体験した知識に基づく判断を志意というのだと思われる。

 
 喜怒は、感情で良い。

 魂魄は、魂消た(たまげた)、キモをつぶした、失神、人事不省、というものに相当するだろう。意識を失うような状態を生み出す。

 精神は、気力とか、気が抜けたとかいうものか。

 『霊枢』本蔵篇の意味は、考えや知識は、精神を制御し、魂魄をコントロールし、寒温に対処し、感情を和らげる、ものである。

 つまり、宮里優作は、優勝の経験が無かったので、精神を制御できなくて、気が抜けてしまったといえるのではないでしょうか。

 すくなくとも、本蔵篇では、考えや知識、精神(気力)、魂魄(たましい)、感情、の4種類を「こころ」と見なしていたということになる。精神(気力)、魂魄(たましい)、感情をコントロールするのが、考えや知識だというのは、立場とすれば、荘子の万物斉同的であるなあ。



 
 

2013年11月29日金曜日

白隠禅師「坐禅和讃」

 臨済宗中興の祖といわれる白隠慧鶴(1685~1768)と長野県飯山の正受老人の問答。
  正「おまえの悟りを見せてみよ」
  白「そんなものは見せられません」
  正「この穴蔵死人坊主め」

 自分は悟ったと思っていた白隠に対して、自分ひとりの世界に留まっているのは自己満足にすぎず、衆生の救済という仏教の命題にまったく役に立っていないと、正受老人は戒めた。かくして禅の教えを大衆に広めることをみずからの使命とし、そして生まれた「座禅和讃」。

  衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、
  水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし、  
  衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ、
   たとえば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり、
  長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず、
  六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり、
  闇路に闇路を踏そえて、いつか生死を離るべき、
 11月24日、母の一周忌。臨済宗の松島瑞巌寺の僧侶によって詠まれた「坐禅和讃」は、荘子ともかぶり、後藤艮山ともかぶり、なんとも味わい深く聞きました。
 真実は難しく高尚なことばにあるのではなく、身近でわかりやすいことばにあるのだということを、禅の悟といい、儒の仁といい、どちらも目の前の届くところにあるということを、聞きました。
 

2013年11月3日日曜日

養生学

 東洋鍼灸の非常勤講師だったころに、一年に10コマで、養生学を講義することになった。1年が40コマなので、半期で20コマ。その20コマを、漢方と分け合って、養生学をすることになった。東洋医学の3本柱のうちの2本柱が、ご挨拶程度でいかがなものかと思うけれども、全く無いというところからみれば、おおきなステップアップである。

 おそらく、それから10年くらい経っているだろうと思う。このたび、丹塾(第39回 11月10日)で、時間をもらって「養生を考える」と題して、3時間、発表します。

 現在、そのために読んでいるのが、貝原益軒の『養生訓』。いろいろ知った上でよむと、なるほど名著であります。押さえるところはおさえて、はずすところははずして、養生の歴史・要諦をよく知った先生だとわかりました。

 また、読んでいるのが、伊藤仁齋の『童子問』。貝原先生も儒者ですが、伊藤仁齋も儒者。養生が、荘子によって、概念が変わったのですが、その概念でとらえると『論語』も養生書ということになる。荘子によって、養生がどう変わったかというと、生き方も養生なのだ、ということ。これは見逃してはならないのだが、見逃していました。これを見逃していないのが、整体師の野口晴哉先生です。

 養生は養生術によって普及し、道教に吸収されて、いよいよ発展しました。現在の、私たちの養生観は、この延長線上にあります。養生は、養生術だけでないと言ったのが荘子で、生き方こそ養生なのだと提唱しました。が、これが主流になることはありませんでした。『素問』上古天真論篇が、荘子的養生の継承者といえるでしょう。

 養生とはなにか。それを丹塾の講座の中で冷静に見つめ直すことができればと考えています。
興味があったら、丹塾に来てみませんか。

 

2013年9月27日金曜日

何の陋かこれ有らんと。

 『論語』の子罕篇に「子、九夷に居らんと欲す。或るひと曰く、陋なり、これを如何にせんと。子曰く、君子これに居らば、何の陋か、これ有らんと。というのが、9月の霊枢講座の始まりに読んだところ。
 孔子が乱世の地を離れて、未開の地にでも住みたいといったところ、そこは非文化の地であり(陋俗)、そんな所でもいいのかといわれ、君子が住めば文化的になると応えた。君子の孔子が住めば、自動的に文化が広まる。この解釈は朱子にもとづく。

 陋といえば、雍也篇で、顏回の狭い路地暮らしを「陋巷に有り」といい、孔子は、その顏回を評して「人は其の憂いに堪えず。回や、其の楽しみを改めず」と大絶賛を浴びせている。絶賛をあびせたのは、貧窮にではなく、楽しみを保持していることにである。

 その楽しみとは、つまり、「善悪の差別の無い」ところを指して言うのではないか。顏回が貧窮生活でも、自分のことを貧窮と思っていない。なので「楽しみ其の中に在り」という。非文化も文化も、善悪の彼岸に立てば、どこに住んでも楽しいということになる。孔子は、もちろん仁愛、忠恕を訴えたのだけれど、その分母に楽しみ、つまり知的分別が無いということを求めているのではないだろうか。

 楽しんで仁愛をふりまくのと、型どおりに仁愛をふりまくのとでは、天と地ほどの違いがある。『論語』の核心が、このあたりにあるのではないかと、9月8日に気がついたのであります。

2013年9月2日月曜日

オリエント研修

 9月1日は、大阪のオリエント研修でした。
 今回は、スケジュールも強行で、9時~12時、13時~16時と、合計6時間でした。まさにオリエント強行。学生と、既卒者にわけて、石原克己先生と、講義してきました。

 様子がわからないので、下準備無し、原稿無しで、体当たり興業。そんなことより、前泊して、新幹線往復のほうが、身体がつらい。腰は痛くなるし、ホテルの冷房には当たるし、遠征はつらいです。疲弊ということばがよくわかるようになりました。

 既卒者は、毎年同じメンバーなので、日進月歩、進化しておかねばなりません。オファーが来るのは光栄なのですが、それに応えるのが難儀です。来年はオファーが来ないのをこっそり祈っています。

 帰りの電車では、石原先生と、藤原先生と一緒になりました。石原先生は、島田先生とか丸山先生と霊界通信モードにはいって、僕の使命など、熱く語ってくれました。6歳年上ですが、とてもパワフルです。

 今回は、頭がまわらないので、報告だけでした。



2013年8月12日月曜日

先生方、飢えているなあ

 8月6日(火)に、東洋療法学校協会の教員研修会で講演をしてきました。聴衆は、教員の他、校長、理事長らの面々、260人。「初心にかえれ-原典に学ぶ」と題して、90分講演をしました。

 
 11脈と12経脈の違いを話し、ついで後藤艮山の一気留滞説に触れました。出土文書の話なので、しらけるのではないかと、中身をわかりやすくしてみました。プレッシャーでしたね。

 話しぶりも自慢できるものではなく、拙い講演だなあ、と反省しましたよ。でも、不思議。アンケートによれば、40パーセントがとても満足、35パーセントが満足、でした。

 自由記入の欄を概括すると、「東洋医学の情報に飢えている」姿が、浮かんできました。でも、探せば、あちこちに論文があるから、そんなに情報が足りないというわけではない。そうすると、探して、読んでいる、暇が無いのかも知れません。

 懇親会では、現状をなんとかしたい、という話をする人が多かった。教育内容に不満があるものの、国家試験が前提であるならば、いたしかたない。そして、困惑している生徒を目の前にして、どうしていいのかわからない先生方がたくさんいました。生徒が嫌いな教科が、東洋医学概論。先生が教えたくない教科が、経絡経穴概論、ですって。

 いずれにしても、先生方は飢えている。かれらにに栄養をあげられないのは、先輩としての怠慢だな、と心強く思った次第。

*講演は、いつでも、イヤですね。今回は、特に。一月前から、内容を練り、これでいいかなと思ったところ、実は5日前に気が変わって、中身を一新しました。ああ、疲れた。

2013年8月9日金曜日

父の石臼

 父は、昭和35年ころ、赤門の鍼灸学校に入って、亡くなる昭和61年まで、鍼灸を業としていました。昭和38年4月に免許をとって、借家を宮城県松島町に確保して、その年から、松島町に移りすみました。子供4人と母親は、母親の実家(宮城県塩竃市浦戸野々島)に、3年ほどいました。

 鍼灸学校に入る前は、宮城県豊里町というところで、煎餅屋をやっていたそうで、それを切り上げて、鍼灸の道に進んだようです。下の写真は、煎餅屋で使っていた石臼で、母の実家にあずけておいて、そのまま放置されていたものです。このたびの津波で、母の実家の家屋敷が壊され、塩竃市が一括して解体し、すべて撤去して、更地にしました。そのとき、この石臼が出て来ました。裏返しにとりのこされていました。このたび、だんどりがついて、松島の実家に帰ってきました。感無量であります。

 同業とはいえ、父親とは縁が遠く、まったく親不孝ばかりしたと思っています。何一つ、期待に応えられず、忸怩たる思いがあります。せめてもの親孝行と思い、実家に持ち帰ってきました。

 
 農家の次男で、戦争から帰って煎餅屋をやり、はり灸に転じました。頭の良い人だったらしく、隔世遺伝して孫たちに優秀なのが出ていますから、確かにそのような血筋があるのだと思います。字はうまくて、賞状書きなどもしていたようです。

 治療院といっても、住居と兼用で、居間が待合室で、父の寝室が治療室です。このころ、昭和40年のころは、丸山先生が素問・鍼経の研究をしていて、島田先生は学校に入って、出たかというころ。それから50年たって、鍼灸の世界もだいぶ変化して、世の中に認められるようになりました。隔世の感があります。