2013年8月9日金曜日

父の石臼

 父は、昭和35年ころ、赤門の鍼灸学校に入って、亡くなる昭和61年まで、鍼灸を業としていました。昭和38年4月に免許をとって、借家を宮城県松島町に確保して、その年から、松島町に移りすみました。子供4人と母親は、母親の実家(宮城県塩竃市浦戸野々島)に、3年ほどいました。

 鍼灸学校に入る前は、宮城県豊里町というところで、煎餅屋をやっていたそうで、それを切り上げて、鍼灸の道に進んだようです。下の写真は、煎餅屋で使っていた石臼で、母の実家にあずけておいて、そのまま放置されていたものです。このたびの津波で、母の実家の家屋敷が壊され、塩竃市が一括して解体し、すべて撤去して、更地にしました。そのとき、この石臼が出て来ました。裏返しにとりのこされていました。このたび、だんどりがついて、松島の実家に帰ってきました。感無量であります。

 同業とはいえ、父親とは縁が遠く、まったく親不孝ばかりしたと思っています。何一つ、期待に応えられず、忸怩たる思いがあります。せめてもの親孝行と思い、実家に持ち帰ってきました。

 
 農家の次男で、戦争から帰って煎餅屋をやり、はり灸に転じました。頭の良い人だったらしく、隔世遺伝して孫たちに優秀なのが出ていますから、確かにそのような血筋があるのだと思います。字はうまくて、賞状書きなどもしていたようです。

 治療院といっても、住居と兼用で、居間が待合室で、父の寝室が治療室です。このころ、昭和40年のころは、丸山先生が素問・鍼経の研究をしていて、島田先生は学校に入って、出たかというころ。それから50年たって、鍼灸の世界もだいぶ変化して、世の中に認められるようになりました。隔世の感があります。


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