2013年9月27日金曜日

何の陋かこれ有らんと。

 『論語』の子罕篇に「子、九夷に居らんと欲す。或るひと曰く、陋なり、これを如何にせんと。子曰く、君子これに居らば、何の陋か、これ有らんと。というのが、9月の霊枢講座の始まりに読んだところ。
 孔子が乱世の地を離れて、未開の地にでも住みたいといったところ、そこは非文化の地であり(陋俗)、そんな所でもいいのかといわれ、君子が住めば文化的になると応えた。君子の孔子が住めば、自動的に文化が広まる。この解釈は朱子にもとづく。

 陋といえば、雍也篇で、顏回の狭い路地暮らしを「陋巷に有り」といい、孔子は、その顏回を評して「人は其の憂いに堪えず。回や、其の楽しみを改めず」と大絶賛を浴びせている。絶賛をあびせたのは、貧窮にではなく、楽しみを保持していることにである。

 その楽しみとは、つまり、「善悪の差別の無い」ところを指して言うのではないか。顏回が貧窮生活でも、自分のことを貧窮と思っていない。なので「楽しみ其の中に在り」という。非文化も文化も、善悪の彼岸に立てば、どこに住んでも楽しいということになる。孔子は、もちろん仁愛、忠恕を訴えたのだけれど、その分母に楽しみ、つまり知的分別が無いということを求めているのではないだろうか。

 楽しんで仁愛をふりまくのと、型どおりに仁愛をふりまくのとでは、天と地ほどの違いがある。『論語』の核心が、このあたりにあるのではないかと、9月8日に気がついたのであります。

0 件のコメント:

コメントを投稿