大器晩成は、『老子』41章が出典。
大物は、速成しない(速成したのは、大物じゃない)、晩成である。
大方無隅、
大器晩成、
大音希声、
大象無形、
3字目は、無、晩、希、無、である。
希は、14章に「聴之不聞、謂之希」とあり、聞こえないものを「希」というからには、「希」は無いという意味をもつ。
そうしてみると、晩も、無いという意味をもつに違いない。蜂屋邦夫『老子』は、出土した『老子』に「晩成」を「免成」「曼城」に作るものがあり、「免成」も「曼城」も「無成」の意味で、できあがらないこと、という。
大きな四角は四隅が無く、大きな器はできあがらず、大きな音は音が無く、大きな形は形が無い。私たちが理解している「大器晩成」とは違う意味のようです。
なんでこんなことを言い出したかといえば、鈴木大拙『無心ということ』の、
「本当の祈りというものは、永遠の祈りなので、いつといって成就するものではない。成就したということになるともはや祈りの生活をやめてしまう。」
という文章と、重なるなあ、と思ったからです。
極楽が大楽だとすれば、そこいらの楽しみではなくて、得ることができないすごい楽しみがありそうなところです。(しばらくは)夢は極楽に行くこと(にしておきましょう)。
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