2018年11月6日火曜日

大器晩成

 大器晩成は、『老子』41章が出典。
 大物は、速成しない(速成したのは、大物じゃない)、晩成である。
 
 大方無隅、
 大器晩成、
 大音希声、
 大象無形、

 3字目は、無、晩、希、無、である。

 希は、14章に「聴之不聞、謂之希」とあり、聞こえないものを「希」というからには、「希」は無いという意味をもつ。

 そうしてみると、晩も、無いという意味をもつに違いない。蜂屋邦夫『老子』は、出土した『老子』に「晩成」を「免成」「曼城」に作るものがあり、「免成」も「曼城」も「無成」の意味で、できあがらないこと、という。

 大きな四角は四隅が無く、大きな器はできあがらず、大きな音は音が無く、大きな形は形が無い。私たちが理解している「大器晩成」とは違う意味のようです。

 なんでこんなことを言い出したかといえば、鈴木大拙『無心ということ』の、

 「本当の祈りというものは、永遠の祈りなので、いつといって成就するものではない。成就したということになるともはや祈りの生活をやめてしまう。」

 という文章と、重なるなあ、と思ったからです。

 極楽が大楽だとすれば、そこいらの楽しみではなくて、得ることができないすごい楽しみがありそうなところです。(しばらくは)夢は極楽に行くこと(にしておきましょう)。

 


 

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