2018年3月12日月曜日

蔵王連峰が見える

 郷里の、仙台からでも、塩竃からでも、県境の蔵王連峰が見えると教わって、よくよく見てみると、よくよく見えました。いままで、蔵王連峰が見えると思わなかったので、一度も見たことが無かったのです。見えないのではなく、見ていなかったのでした。

 このように、ちょっと教われば、何気なくできることは、たくさんあるんだろう。一度見えてしまえば、いつでも見ることができるのです。ちょっと教わる、それだけで充分なのです。何も、手取り足取り、ご丁寧に教えなくても。鍼灸の実技もそうなのかもしれません。

 それでも、蔵王連峰に興味がなければ、教わっても、見ないでしょうね。そんなくだりが、『論語』にある。述而篇「一隅を挙げるに、三隅を以て反(かえ)さざれば、則ち復(ふたた)びせず」(先生は、四隅のうち、一隅をあげて示して、三隅があると反応しなければ、くり返し示さなかった)といい、学ぶ側に受け入れる素地が無いときは、不毛の土地にタネを蒔くようなもので、なんともしようがない。

 学問は、受け入れる素地があれば、教え込み、素地が無ければ、興味を持たせる。蔵王連峰を見て、考えました。


0 件のコメント:

コメントを投稿