鶯谷書院
2018年3月26日月曜日
我独りくらきがごとし
『老子』30章に「俗人昭昭して、我独り昏(くら)きがごとし」、みんなは陽気で、ぼくだけが陰気だとあります。前後の文章も、周りのひとは楽しそうにワイワイしているが、老子だけが陰静な立場を取っているという表現がつづく。この文章を読むと、老子は陰気で偏屈な人という印象を持つが、そこは本意ではないだろうと、桜の花をみて考えました。
『老子』26章に「(君子は)栄観ありといえども、燕処して超然たり」とあります。森共之がいう。みごとなる見物有る時は、衆人は我れ先にとさわぎ立て、競い見れども、君子たる人は、それには目はくれず、衆人の上に超出し、重く静かにして安処(をちつきおる)、と。
どこどこの桜が見事だ、きれいだと、気を走らせ、心を奪われることなく、落ちついて、冷静でいるべきだ。この時期、この警句を思い出します。
東洋医学の診察でも活かされます。主訴にふりまわされるな。特定の診察に拘るな。視野が狭くなって、見えるものも見えなくなるぞ。ありとあらゆる角度から落ちついて診察して、冷静に病像を明々白々にする。これが東洋医学の本質ではないでしょうか。
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