2016年11月1日火曜日

電車のつり輪

 18歳で上京して驚いたことの一つは、つり革の輪が、地下鉄では三角だったことです。最近では、つり革は同じ車両の中でも長さが同じでなく、長短入り交じっていて、みていて楽しい。

 写真のは大阪の南海電鉄のつり革の輪で、少し太い。この太さになんとも安心感がある。ベストオブつり革でした。

 電車の吊り輪を見た小児や乳児は、なんとしても掴んでみたい、という目つきになり、手をぐーっとのばす。小学生になると、ジャンプして、掴まえようとする。その姿をみるたびに、「初心」ということを、つくづく思う。つり革に届いてしまうと、目をキラキラしていた時代を忘れてしまう。

 鍼灸を仕事として、食えるようになりたい、治せるようになりたい、ああなりたい、こうしたいという夢が、頑張った結果、実現してしまった。次の野望でもないかぎり、成長は止まってしまう。

日本エレキテル連合の中野さんのコラム(東京新聞10月22日夕刊)が興味深かったので。

「何もかも自由じゃなかった未成年の頃が恋しい」

「そんな不自由さを埋めるために私の脳味噌は進化した。何もかもを空想で手に入れていたのだ」

「ところが最近、私の頭の中の世界が消滅していることに気がついた」

「大人になるにつれ、いろいろな経験をして現実の世界が充実してしまった分、空想の必要が必要なくなってしまったのだと思う」

「不自由や反骨精神から理想を空想してお話を作っていたのに、何も不満がないから書くことがない」

「できることなら少女の頃に戻ってまた妄想や空想に耽りたい」」

 不自由や不満が原動力になり、それが満ち足りれば原動力は奮い立たない。これを 『老子』は、「物壮んなれば老ゆ」と言っている。イチローのように、高い意識をもちたいものだ。

 昭和の鍼灸の目標は「食える」であった。今も、同じである。敷居が低すぎやしないだろうか。

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