2016年7月25日月曜日

藤井秀孟『鍼法弁惑』

 丹塾古典部で、先月から読み進めた、藤井秀孟著の『鍼法弁惑』は、本日(7月24日)でとりあえず読了。読み切ったわけでも無いのですが、なるべく多くの古典に触れるのが古典部の方針ですので、とりあえず読了ということにしました。

 『鍼法弁惑』は本文81丁。ほどほどの分量ですが、中身は濃いものがあります。『内経』『難経』を読みこなしているようで、はっ!とするような解釈が随処にみられます。こんなに踏み込んだ解釈に遭遇して、とても驚いています。

 藤井先生は、漢学の素養は深く、臨床もすぐれている、現今にはいないレベルの先生だと思います。矢野白成先生も近い。今では、丸山昌朗先生か。

 毫鍼の刺し方は、ただ刺して、ただ抜くと言う、実にシンプルな方法を行う。それは『霊枢』九針十二原篇に、毫鍼は尖は蚊虻の喙(くちばし)のごとし、とあるところからヒントを得て、ただ形を真似るだけでなく、刺し方も蚊や虻を手本にせよと覚り、静かに刺して、静かに抜くのを原則とする。撚るとか、手技を加えるのは、毫鍼の本義ではないと。

「毫鍼は、尖は蚊虻の喙のごとし。静かにし、以て徐ろに往(すす)め、微(しず)かにし、以て久しく之れを留む。」

「弁惑」は、『論語』顏淵篇から採ったもので、惑とは、人間が無自覚に犯す矛盾、弁とは、それを弁別発見し除去すること。日本の伝統的な鍼灸法にかぶさっている、こじつけ、偏見、強引な割り振りなどを批判し、合理的に判断し、不要なものを取り去ることを言っている。

 判断の材料は、『素問』『霊枢』『難経』で、そして自身の理性で決断する。方向性としては、伊藤仁斎、後藤艮山のながれであり、古学、古方に属すると考えられる。

 『霊枢』九針十二原篇の「鍼を持するの要、堅きものを宝とす」「之れを刺して気至らずんばその数を問うことなかれ」などをまとめて、 これらの文章は「中正平直(偏らず公平)にして鍼を下し、小心翼々(慎重に)として命を重んずる要を論ぜり」と要約し、たんなる刺鍼法を述べたのではないことを見いだしている。

 この中正平直は、科学的な態度にも近い。私情を差し挟まない、臆見を介入させない、へりくつを通さない、思いこみを容れない、冷静で合理的な態度である。

 陰陽五行説、五蔵説、経脈説、経穴説、これらを中正平直に批判しないかぎり、鍼灸医学のあたらしい局面が生まれないのではないか。ただ、言われるままで受容している今のままでは、アカンでしょう。






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