2015年12月7日月曜日

恬淡虚無とお灸

 11月29日の講演は、恬淡虚無とお灸の関係を、すこしばかり話してきました。題材は、森共之編の『意中玄奥』の、一部分です。

①「無にして刺し、無にして出す」と云こと、凡そ此の道理に通達せざるものは鍼工と云に足らず。又た病を治することかたかるべし。無とは無心也。補写に心ろなかれと也。是れ則ち補写の極秘にして文字にあらはさぬこと也。幾ばくの門人ありといへども、此の補写の伝を得たるもの無し。

 冒頭の「無にして刺し、無にして出す」、無は無心で、恬淡虚無と同意で、心静かに、無心に、鍼を操作することが森流の極意で、その境地に到達した弟子は居ないという。


②それ灸法に虚実寒熱を問わずして、概して之れを灸すれども、しかも虚する者をば元陽を助け、実する者をば之れを発散し、寒する者をば之れを温め、熱する者をば外に発す。此れ神効あることいかんとなれば、灸にはたくみはかる処なく、補写の心もとよりなきゆへに、能く補ひ、能く瀉す。よつて虚実寒熱を問はず、之を治す。人為の私意手術に非ざれば也。


 灸術は、虚実も寒熱も区別しないで、おなじように施灸するが、それで妙効をあらわすのは、お灸が、一旦火を付けてしまえば、「たくみはかるところの人為」が介入しないので、自然に治ってしまうという。

 鍼術が難しいのは、鍼に気持ちを込めてしまう「私意」が介入して不自然になり、不自然な治療なので、自然に治る力をダメにしてしまうのである。だから、鍼術に上達したい人は、私意を介入させないで、恬淡虚無にならねばならない。これが森流の極意の「無にして刺し、無にして出す」である。

 この文章を読むと、鍼単独の技術は、相当に難しい。そもそも「恬淡虚無の修行」が確立されていないし、「恬淡虚無」の境地に至るまでの道のりも遠そうである。

 そこで、灸術ならば、技術として私意が介入しないのであるから、治療家が未熟でも、恬淡虚無に未達でも、他力的に治してくれるわけである。②のところをよく読んでいただければ、納得いただけると思う。お灸を積極的に治療に取り入れたほうが治癒率は高まるとつくづく思う次第。

 ところで、『意中玄奥』が欲しい人は、ご一報ください。正価でおわけします。

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