久方ぶりに、『サライ』の論語特集号(2007年3号)を開いたら、野末陳平さんのページに至る。
そこには、『論語』公冶長篇の「老者には之を安んじ、朋友には之を信じ、少者には之を懐けんと。」が引用してありました。
「老人には一緒にいて安心される存在であり、年下も含む友人には真心で接して信頼され、若者には慕われる」という意味です。この文章は、ちょうど土曜日に読んだところ。
孔子が顏回と子路に対して、お前達の志(こころざし)を言ってみなさいといい、最後に自分の志を「老者には~~」と述べたくだりである。
野末陳平さんは、最後に 「しみじみ、いい言葉だと感じています。この境地が今の人生目標といっても過言ではありません」と結んでいる。実に、渋い選択だなあと感心しました。野末さんは、『論語』に関する著作があるほどの勉強家で、その上で「老舎には」を選んだところに、熟達者の味わいがある。
孔子が唱えた「仁」の、より具体的な、そして日常的な、到達点が、「老者には」なのかも知れません。礼だとか、義だとか、信だとか、孝だとか、弟だとか、こまごました科目があるのだけど、ひらたく言えば「老者には」ということになるのだと思う。「仁」の最終目標は、平和な社会であり、その到達の現れが、老者、友人、若者と和やかに融け合うことなのだ、と静かに語ったのだと思う。
子路は、私物の車やコートを友達に貸して、壊されても不満を言わない、破られても憾まないといい、顏回は、良いことをしても誇らしげにしない、手柄をたてても威張らないと言いました。二人は自分のことを言ったまでのことで、「老者には」と言って、自分のことではなく、「社会の調和」がわれわれゴールなのだ、と教育的に指導したのでしょう。きっと。
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