2019年1月20日日曜日

坐禅和讃

 坐禅和讃は、江戸時代の臨済宗の禅僧、白隠慧鶴の作。11月24日の母の七回忌に、松島瑞巌寺のお坊さんの読経で、ひさびさに耳にしました。読み込んだ声からでたお経が、じ~んとしみました。

衆生本来仏なり。水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし。衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ。譬えば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり。長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず。
 仏典は中国語訳(漢訳)で日本に普及しましたが、その中にあって和語の坐禅和讃は、出色の作なのです。漢文を音読するより、坐禅和讃を読む方がはるかに良いと思うのです。きっと漢文音読のほうがありがたいのでしょう。分かりたいより、有りがたい、というのが日本人のたちなのかもしれません。

 お葬式は不要とは思うけど、松島瑞巌寺の和尚さんの読経を聞くと、お葬式も悪くないと思う。『論語』に、形骸化している「12月の朔日を告げる儀式」の生け贄の羊のことを、子貢は無駄ではないかと孔子にいえば、孔子は「おまえは羊を吝しむが、わしは今まで続いている儀礼が惜しい」と答えたことを、思い出します。

 無駄な儀式を残すのか、伝統だから残すのか。悩ましいところです。

 
 

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